エッセイ

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晩ごはん、なあに?(2)負けず嫌いに気づく食卓 古久保さくら

2011.01.25 Tue

夜間開講大学院を担当するようになってから、めっきり自分で料理する機会が減ってしまった。料理する機会が減ると、たまにつくるときには同じメニューを延々と作り続けることになってしまう。

主菜は、青魚の梅干しで炊いたん・牛肉と糸こんにゃくの甘辛いため・とりのから揚げの中から選択し、副菜は、春雨サラダ・ほうれん草のおひたし・ポテトサラダあたりをくりかす。汁菜は粕汁・豚汁・茶碗蒸しから択一といったところ。
レパートリーが限りなく少なくなっている気がする・・・

IMG_0174しかも私はお鍋が好きで、自分の料理担当日(冬季)には、上記のパターンも踏襲されず、よくお鍋になる。豚のしゃぶしゃぶとか、うどんだしでのとり鍋とか、みそ仕立ての肉団子(お肉屋さんで買ってくるもの)とゴボウのお鍋とか、おでんとか・・・自家製タレにこだわるわけでもなく、志野のポン酢や一休堂の七味があれば十分幸せ。裏山でとれたゆずを絞ればカンペキ。
私的には満足なんだけれど、「これってお手軽料理?それとも手抜き料理?」というクレヨンしんちゃんの憎たらしいセリフがよみがえる日々。

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一方、相方はクリスマスプレゼントにバーミックスをもらって以来、いよいよ料理の腕があがっている。もともと少々凝り性のうえ、参考書として(WANで買った)「きのう、何食べた?」を広げて、勉強熱心でもある。

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昨日のメニューは、
キノコたっぷり煮込みハンバーグ(「きのう、何食べた?」のシロさんがつくっていたやつをアレンジしたもの)と、ポテトと玉ねぎとセロリと人参のミックス野菜のポタージュスープ(バーミックスの出番)にアスパラガスのサラダ。
その前の担当メニュー[i]は、牡蠣、アサリ、ムール貝等の入った魚介のパエーリャとレタスとベビーリーフに生ハム(の切り落とし)が入ったシーザーズサラダ風。
そのまた前のメニューは、とりのオーブン焼き香草風味ポテト添えバルサミコソースに、トマトとモッツァレラとバジルのサラダ、イチゴ。

休日のお昼だって、しょうがのたっぷり入った海鮮チゲとか、バーミックスを使ってソースからつくったスパゲティ・ジェノベーゼとか、作り置きして冷凍していたピザパイ生地をおもむろに出して作るピザとか、あれこれつくっている・・・
そしてまた、外食すると、それにヒントを得て新メニューも登場する。最近の新しいレパートリーは、キャベツととりとアサリのスパゲッティ。胡椒をキリッと効かせて、美味しいんだな、これが。

うーん、完全に負けている気がする・・・
おかしい。20ン年前いっしょに暮らし始めた時には圧倒的な差があったはずなのに・・・(私のほうが料理は絶対上手だったはず)
私が単身赴任や夜間の仕事についている間に、完全に料理のレベルが逆転してしまった。

それにしても、それが「悔しい」のはなぜなんだろうか?
性別役割分担にこだわっている私ではないはずなのだ。それなのになんとなく悔しい。

先日、大学時代の友達と飲んでいたら、弁護士として忙しく働いている彼女も、料理も子育ても相方の方がメインにやっていて、たまに料理を担当しても「たまにしかやらないのに、こんな料理?ふっ(笑)」的な対応をされて腹立つ―、という話をしていた。
その話を聞きながら、私の「悔しさ」の理由がほんのり分かったような気がした。
つまり。一人で料理を担当していた時代は、手抜き料理だろうがお手軽料理だろうが、とにかく自分の領域にあったので、「イヤなら食うな!」的権力(暴君ともいえるが)がふるえたものが、相方が一人前以上に担当できるようになってしまうと、それができなくなる。くわえて、常に自分の料理はギャラリー[ii](子どもたち)によって比較の対象となってしまい、つい競争原理が働いて、よりよいメニューが求められてしまう。にもかかわらず、その勝負で勝てていない気がする。
したがって、みょうに悔しいのであった。

唯一私が相方に「勝てている」と思うのは、スピードなのだ。「40分間で4品作る!」とか、「料理しながら洗濯もできる!」とか、「片づけながら料理が進む!」とか、そういう勝負なら圧倒的に「勝てる!」のだけれど・・・
ところが、こういう能力は、子どもが小さくって家事が多くてやたら忙しく料理も一刻を争うような状況なら高く評価してもらえるが、大人ばかりの家庭になった今となってはあまり評価されなくなった。しかもギャラリーから「そもそも、そんなに急ぐ必要があるの?」なんて言われると、「それはそうだ」とも思って反省しまう。
「そうだよね、何ごともマイペースで進めていけばいいよねー」と思いつつ、それにしても自分の少ないとりえの一つが評価されなくなるのは、やっぱりちょっと悔しい。

私って、自己イメージは「おっとりしている」と思っている[iii]んだけれど、けっこう負けず嫌いだったのね・・・と気づく食卓なのでした。


[i] 我が家では、毎日夕食を作るわけではないので、「担当メニュー」という表現になる。実は家内中みな忙しく、外食・孤食になることも多々あるのだ。だから、我が家の「食卓」は自分ちのダイニングテーブル以外にも、「ご近所中華」とか「ご近所イタ飯」とか、学生街のお手頃価格な定食屋さんとか、オフィス街のおひとり様用カウンターとかにも広がっているのだが、その件についてはまた、別の機会に書きたいと思っている。

[ii] ギャラリーこと子どもたちはすでに大人なので、料理を作る能力はある。実際、寮生活や友達同士のホームパーティではいろいろな料理をよく作っているようだ。だが、親に食べさせるために作ってくれるかというと、そのようなことは従来あまりなかった・・・今年あたりからは親のためにも作ってくれるかもしれないので、期待中の身。

[iii] あくまで自己イメージ。同僚たちは、さまざまな場面でしばしばブチ切れる私を見て「おっとりしている」とはまったく思っていないようだ・・・だが、私のような「おっとりしている」人がブチ切れるような状況がイケナイんだ、と思ったりもするので、自己イメージは温存されているのであった・・・








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