2011.05.04 Wed
第10回のテーマは、「セカンド・ステージに立つ家事労働論ーー『ケアレス・マン』を超えて」でした。
石垣綾子「主婦という第二職業論」に始まる第一次主婦論争(1955年〜)から第三次主婦論争(1972年〜)、さらに嶋津千利世「現代社会の家族と史的唯物論」(1973年)、毛利明子「家事労働の社会化と家事労働の経済評価」など、日本における家事労働論争はいかに行われてきたか、竹中先生ご自身の論点を明らかにしながら、読み解いていかれました。
さらに、21世紀の「ケアの社会化をめぐる新しい戦略について」。「ケア不在の男性稼ぎ手」モデルから、ケア付き「個人単位」モデルに向けて、オランダ、ドイツ、スウェーデン、フィンランドの先進例を語っていただきました。
私は、安川悦子氏が「家事労働はいずれ消滅する」という論を展開するなかで、「竹中の家族論はロマン主義的家族論」と批判したことに対する、竹中先生の家事労働論に注目しました。
竹中先生は、「家事労働が女性の抑圧の物質的基礎であることをやめ、真に創造的な労働力の再生産としての意味を取り戻す」には家事労働を二つの領域に分けて考える必要があると指摘されています。
1.家事労働の中で個人がおこなう、自由で自主的な生活活動という領域
2.社会的な共同的労働として、外部化すべき領域
そして、こうした家事労働を「新しい生活文化を創造する自由な労働の権利として、生活時間のなかに位置づける必要」があり、そのためには、「男女両性の権利」としてと同時に、「労働時間短縮要求として確保すべきである」と、明確に語られました。
私は、新聞社でいわゆる「家庭面」を担当してきました。同じ竹中セミナーの企画委員である木村涼子さんは、近著『<主婦>の誕生ーー婦人雑誌と女性たちの近代』(吉川弘文館)のなかで、1920年代、1930年代に大衆化した婦人雑誌は、編集者から読者への一方向ではなく、読者からの投稿という双方向の動きのなかで、近代社会が提示した「主婦的役割に対する合意形成のプロセス」の役割を果たしてきたと分析されております。新聞の家庭面も同じ役割を果たしてきました。
しかし、1970年代から1980年代にかけて、女性解放論が多様化し、一方で、家事労働の市場サービス化が進むなかで、庖丁・まな板のない家庭/個食、孤食/使い捨て商品など、家事が浮遊し、家庭が空洞化しているのではないかという危機感を私は感じていました。
生きる力、生きのびる力としての家事能力を、だれもが、特に若い人たちが持つ必要があるのではないかと思っていたのですが、ジェンダーにニュートラルなかたちで、家事労働の大切さを強調することは困難でした。
3年前、日本家庭科教育学会編『生活をつくる家庭科』(ドメス出版)で、「生活スキル」という言葉に出会いました。「科学的な根拠に基づく合理的判断である分析によって生活に必要な物(物質・サービス)を選択し、それらを使いこなしながら、日常の生活の営みのなかで人間関係を育み、自己の生活と社会を創造する力」と定義されています。
これこそ、竹中先生のおっしゃる「新しい生活文化を創造する自由な労働の権利として、生活時間のなかに位置づける」べきことではないかと思っています。
カテゴリー:セミナー「竹中恵美子に学ぶ」