エッセイ

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<女たちの韓流・16>「私が生きる理由」-貧困と暴力に耐える人々 山下英愛

2011.05.05 Thu

<女たちの韓流・16>「私が生きる理由」-貧困と暴力に耐える人々   山下英愛

ドラマ「私が生きる理由」(全44話、MBC1997)は、前回紹介した作家ノ・ヒギョンの初めての長編作品である。1970年代の都市貧民街を舞台に、そこに生きる人々のささやかな愛と希望をテーマとした秀作だ。金と暴力が支配する不条理な社会を鋭く描き、30%を超える高い視聴率を得た。日本でこのドラマのDVDが発売されているのを最近知り、さっそく視聴することにした。

主人公を演じるのは、貧しい家庭の長男で、次第にヤクザの世界に引きずり込まれていくジング(俳優:ソン・チャンミン[孫暢敏]1965~)と、妹たちの学費と生活費を稼ぐために、場末の飲み屋で酌婦として働くエスク(イ・ヨンエ[李英愛]1971~)である。また、ジングの母親は、子供たちを養うために身を粉にして日銭を稼いでいるし、同じ敷地に暮らす口の悪い婆さん、その婆さんと同居する気のふれたスクジャも、それぞれ主人公に劣らぬ存在感がある。そのほか、エスクが勤める飲み屋のママと、その隣で小さな駄菓子屋兼貸本屋を営む“金歯おじさん”、そして、定職はなく虚勢を張って生きているジングの父親の三人が大いにドラマを盛り上げている。

主人公たちの物語

ジングの夢は、いつかお金を稼いで貧民街から脱け出し、幼い兄弟や両親に楽をさせることである。だが、ジングは中卒の学歴しかない上に、弟を医療ミスで死なせた医者に抗議した際に起きた火災で、放火犯の罪を被せられて刑務所暮らしまでした過去がある。そのせいでまともな職につくことができず、弟分のグァンパルと屋台に氷を配達する仕事などをして暮らしている。腕っ節が強く、町のヤクザたちも容易に近づけない存在だ。

ところがある日、グァンパルは持っていた売上金を八百長賭博で巻き上げられ、闇金融にも手を付けてしまう。ジングはグァンパルを陥れたチンピラたちと殴り合って一旦は勝つものの、暴力の応酬は止まらない。喧嘩などはしないで生きたいと思うジングだが、だんだんとヤクザの世界の深みにはまって行く。ジングは結局、金と引き替えにヤクザの親分に身を任せる破目となる。いずれ金を儲けて、こんな生活からおさらばしてやると思いつつ、親分の命令に従うジング。だが、現実はそう甘いものではなかった。ジングは都市再開発に反対する住民のデモ隊を鎮圧するいわゆる“救社隊”(後述)を命ぜられ、よりによって家族が暮らす地区の住民たちが参加するデモ隊に殴り込みをかけることになってしまう。このため母親が負傷し、ようやくジングは親分の元を去ろうと決心するのだが、それには大きな代償が伴った。

一方、酌婦としてこの町にやってきたエスクは、金を稼ぐためにがむしゃらに働く。自分のところの酌婦に二次の仕事(性売買)を許さないママの方針で、売り上げを伸ばすためにひたすら客と酒を飲むしかないエスク。飲んでは店の裏で無理矢理吐いて、体を酷使する。それに妹たちには酌婦であることがバレないように、「工場で働いている」と嘘をついている。そして酌婦をしている自分を見下すようなジングの態度にいら立ちをおぼえながらも、ジングの内面に自分と通じるものを感じ、それが愛だと信じるようになる。エスクはジングに率直に思いを伝えるのだが、ジングの方は偶然出会った耳の聞こえない大学生ジョンヒに夢中になり、「ときめく愛こそが本当の愛だ」と言って、エスクを受け入れようとはしない。

そんなジングも、ジョンヒが自分の弟を殺した医者の娘であることが分ってショックを受ける。それでもジングは、一途な思いで自分にすがるジョンヒが愛おしく、しまいには駆け落ちを決意する。だが、ジョンヒの父親に「君はジョンヒに何を与えることができるのか」と問われて、ジングはジョンヒに与えるものが何もないことを認めざるをえない。「君と一緒になることで、ジョンヒは勉強も夢も耳の手術も放棄しなければならないのだ」と父親に言われ、自分の無力さを痛いほど思い知らされるのだ。結局、自分からジョンヒの元を去り、エスクが待つ貧民街へと舞い戻る。ヤクザ生活を清算するためにひどい仕打ちを受けて満身創痍になりながら、ジングは這うようにしてエスクの元に辿りつくのである。

70年代の韓国社会

このドラマには、70年代初めの韓国社会の様子が随所に描かれている。1961年に軍事クーデターで権力を握った軍人出身の朴正煕大統領は、70年代に入ると非常戒厳令や維新憲法を発布(1972.10)して、ますます独裁体制を強めた。また緊急措置法を次々と発令して人々の自由を奪う一方で、経済開発を推し進めようとした。そのような開発がいかに暴力的に進められたのかを象徴しているのが、貧民村撤去のために動員された“救社隊”である。救社隊とは、労働組合の活動や再開発に反対する住民デモなどを潰すために会社側が雇った暴力集団のことをいう。彼らは棍棒や鉄パイプをもってデモやストライキの現場を襲撃し、徹底的に暴力を行使する。今日でも、労組のストライキを弾圧するためにしばしば救社隊が動員されていると聞いている。

また、あちらこちらに何気なく貼られている標語(スローガン)も、当時の極端な国家体制の雰囲気を醸し出している。例えば、町の公衆電話の横には「正しい心 正しい教育、明るい家庭 健全社会」といった道徳的な標語が貼られている。或いはエスクが働いている飲み屋の壁にも「おかしければよく見て、怪しければ申告しよう」(内務部)と、北のスパイを警戒するものや、「生産教育 種をまき、明日の暮らし 花開く」(大韓教育連合会)などといった、啓蒙的な標語が氾濫する。反共を宣伝するポスターは、私がソウルで暮らした90年代にも日常的に見ることができた。また、友人によれば、70,80年代の学校では、子どもたちに標語を考える宿題が出されたという。こうした標語を日常的に見聞きし、また自ら作ることで、人々はその価値観を自然と内面化したのである。

植民地時代以来の日本の影響や、反共イデオロギーが庶民生活に浸透していた様子が、このドラマのセリフの端々ににじみ出ているのも興味深い点である。グァンパルが「ケンカは頭でするんじゃなくて根性でするもんだ」という時の“コンジョ-”や、小学生の妹がアメリカ帰りの女性の荷物の中からリップスティックを見つけて「わあ、口紅だ」と叫ぶ際の“クチベニ”、また、“ムテッポー(無鉄砲)”などといった日本語が使われている。反共にまつわるものでは、女性の月のものが来ることを“パルゲンイ(アカ)と出くわす”(“アカが南下する”とも言う)と言い、驚いた様子を皮肉って「アカが襲来でもしたっていうのかい?」などと表現している。

女たちの物語

ところで、このドラマの中で私が最も感銘を受けたのは、貧しい女性たちの悲哀というか、“恨(ハン)”に満ちた人生が見事に表現されていることであろう。ジングの母親は無学でハングルも読めないが、5人の子どもを産み育ててきた。金さえあれば家出して女遊びにうつつを抜かす夫に愛想を尽かしながらも、子供たちの父親であることだけは否めず、たまに戻ってくる夫を追い出そうとはしない。次男は、数年前のクリスマスの日に、行列してようやく手に入れた餅を食べて、のどを詰まらせて死んだ。それは医者の誤った処置のせいであるが、そもそもひもじい思いをさせたことが次男の死を招いたと思って、やりきれない。そんな貧しさから何とか逃れようと自分の体が栄養失調でボロボロになって行くのも知らずに働き続ける。それだけでなく、ジングが町のチンピラと喧嘩をすることに胸を痛め、家出した長女に対する心配まで尽きない。せめて小学生の次女と三男だけはしっかり育てようと厳しく接する母親である。

飲み屋のママは、祖母と母が代々営んできた飲み屋という職業が忌々しく、娘の自分に酌婦をさせた母親を憎んでいる。それでも「酌婦の娘は死んでも酌婦の娘だ」という言葉通り、結局自分も飲み屋を引き継いだ。若い頃、ジングの父親のパク・ソンダルと恋に落ちたこともあったが、誰とも結婚せず生きて来た。そうした一人身の寂しさはあるが、自分の代でこの因果な商売を終わらせようと考えている。それでも、自分の死後の後始末をしてくれる人がいないと思うと不安になり、つい店で働く女たちに情をかける。また、女たちが店を辞めて出て行くたびにその期待は裏切られ、一層寂しくなるときもある。ママには物事を直観する能力があり、間違ったことや道理に合わないことに対しては厳しく発言したりする。ジングやグァンパル、ジングの父親や隣人の良き話し相手であり、相談役でもある。ジングの母親からも“ヒョンニム(姉さん)”と呼ばれ頼りにされている。

ジングの隣に住む口の悪い婆さんとスクジャも“恨”多き人生を送ってきた。婆さんよりも数歳若いスクジャは、40歳で結婚して6年後にようやく妊娠したが、夫に暴力を振るわれ流産してしまった。その後、夫の暴力から逃れようと身を寄せた祈祷院がいかさまで、さらなる暴力を受ける破目になる。祈祷院での酷い扱いを知った婆さんが、可哀想な身の上のスクジャを引き取って一緒に暮らすのである。5歳程度の子供と同じ行動しか出来ないスクジャは、婆さんに叱られると、「殴らないで下さい、殴ると痛いの」と両手をさすって泣きながら許しを乞う。外出する時は迷子にならないように、いつも婆さんとひもで体を結びつけて歩く。普段はジングの弟と妹がちょうどよい遊び相手となり、天真爛漫に遊ぶ。このスクジャが、後で正気を取り戻すのだが、その別人のような変わり様には驚かされる。

いつも口汚く罵って嫌われている“罵り婆さん”は、ジングの母親と一緒に市場からニンニクの皮むきの仕事をもらって日銭を稼いでいる。彼女にはアメリカに移民した一人息子がいて、息子が自分を呼び寄せてくれる日を心の支えにして生きている。どんなに辛いことがあっても、遠からずアメリカに行って幸福に暮すのだと思って耐えてきた。ようやく待ちに待った息子から国際電話をもらって有頂天になるが、その実、息子たちの生活も大変で、婆さんの家が都市再開発で高く売れることをあてにしていたのだった。婆さんを迎えに来たという息子の嫁の様子から、息子たちの思惑がお金にあることを察した婆さんは、いっぺんに生きる望みを失くしてしまう。スクジャを道連れに練炭自殺を図ろうとする場面は悲愴である。

こうした女性たちのストーリーを感銘深くするのは、セリフの力以上に俳優たちの力演に負うところが大きいのは間違いない。ジングの母親を演じたコ・ドゥシム(高斗心1951~)、罵り婆さん役のキム・ヨンオク(金英玉1937~)、飲み屋のママを演じたユン・ヨジョン(尹汝貞1947~)、そして、スクジャ役のナ・ムニ(羅文姫1941~)は、いずれも素晴らしい演技でドラマを支えている。

コ・ドゥシムは、地上波放送局三社の演技大賞をすべて受賞した唯一の俳優であり、彼女の故郷である済州島の教育・文化部門の発展に個人的に大きく貢献してきたことで知られる。そうした功績が評価されて、昨年、済州大学から名誉博士号を授与された。次いで演技生活50年になるキム・ヨンオクは、20代の頃からお婆さん役を数多く演じてきた。中でも “罵り婆さん”役で出演したこのドラマは、後に彼女自身が選んだ名作中の名作とされる。また、ナ・ムニも声優時代を含めて、50年の演技経歴をもつ大ベテランである。このドラマは、スクジャを演じるナ・ムニを見るだけでも感動すると言っても過言ではない。

最後に、ドラマの舞台となっている麻浦区桃花洞について触れておこう。この桃花洞の一角は、植民地時代には弥生町と呼ばれ、日本人の遊郭があった場所である。その周辺には朝鮮人の遊郭もあったと言われる。作家ノ・ヒギョンは、この遊郭と隣接する山側の貧民街で、幼年から青年期までを過ごしている。彼女は、1980年代末に都市計画による再開発が家の周辺にも及んだため、ソウルオリンピックが開かれた1988年の冬、ソウル郊外の城南市に引っ越したと書いている。私は1995年頃、昔の遊郭跡を訪ねてこの一帯を歩いたことがあるが、かつて遊郭だった場所はまだそのまま残っていた(写真)。その後、もう一度訪ねた時にはすでに大きなアパートが建ち、あたりは大きく様変わりしていた。ドラマの中で70年代として描かれた貧民街撤去の無慈悲な姿は、80年代、90年代の現実でもあったのだ。

写真出典:http://gall.dcinside.com/memory/28560

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筆写撮影

カテゴリー:女たちの韓流

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