2011.05.07 Sat
プリマドンナを襲う狂気の正体は……?
主演のナタリー・ポートマンが本年度のアカデミー賞主演女優賞を受賞したことでも注目が集まる本作。もともと細い体をさらに9キログラムも絞って役に臨んだとか、全編吹き替えなしでバレエシーンを踊りきったとか、セクシャルなシーンを堂々とこなしてイメージを一新したとか、ポートマンの体当たりの演技がとにかく高く評価された。彼女の華奢で神経質な雰囲気は、この映画が追求しようとしている“怖さ”をとても上手く強調していて、惹きこまれた。
描かれているのは、精神の均衡が崩れていく怖さである。ポートマン演じるバレリーナのニナはプリマドンナとして初舞台を控えている。だが演技をものにできずにじわじわと追い詰められ、静かに狂っていく。
ニナが見るおぞましい幻覚がCGで映像化されていて、映画のなかで「現実」と「心理的な風景」が巧妙かつ不気味に混合されている。強迫的なカメラの動きも効果的だ。手持ちカメラがニナの背後を付きまとうように揺れながら動く。その映像は視野狭窄を常に引き起こしているから、たとえばニナが誰かとぶつかって「ギャア!」と驚く、という超初歩的なドッキリ演出ですら十分怖い。俯瞰的な映像を極力控えることで、ものごとを客観視できなくし、主観の恐ろしさを全面に出している。なにが現実でなにが狂気なのか境目がよくわからないというのはなかなか説得力がある映像体験で、没入する面白さがあった。
ニナのバレエは機械のように正確なのだが、感情表現に劣る。男性の舞台監督のルロイは、ニナの演技を“不感症の踊り”と切り捨てる。ニナは途方に暮れ、始終泣き出しそうな表情で爪が割れるまで練習するが、まったく報われない。求められるものを表現できずに悩み続ける優等生のニナに向かって、ルロイが与えるアドバイスが身も蓋もない。「とりあえずオナニーを覚えろ」。
なんて単純な! 性感を刺激するくらいで肉感的な演技が突然できるようになるものだろうか?(そもそも一度自慰したくらいでエロスの本質がつかめるのか?)という疑問をまじめっ子ニナちゃんは抱かない。監督の言葉を真に受けてしまって、彼女は実直に股間を刺激するのである。泣ける。ニナはどこまでも努力家である。しかし残念ながら、彼女は絶頂に達することができない。寸前で、ある“怖ろしいもの”を目にし、手を止めてしまうのだ。
その“怖ろしいもの”こそが、実はこの映画の最大のポイントである。ニナが見たものはなにか?それは、部屋に椅子を持ちこみ、彼女を見守るうちに眠ってしまったのであろう、母親の姿だった。
ニナを追い詰めているものは、初舞台のプレッシャーでもなければ、エロさを過度に求めてくる舞台監督でもない。恐怖の正体は、母親である。ニナは、かつてバレリーナだった母親によって夢を投影されながら育った純粋培養の娘だ。映画ではほとんど説明されないが、どうやら母親ひとりの手で育てられたらしい。おそらくは、ニナは生まれた時から「あなたはバレリーナになるのよ」と将来を決めつけられながら育ったのだろう。成長を禁じるかのような少女趣味の部屋でニナは寝起きしていて、夜には母親が子守歌代わりにオルゴールを鳴らす。もちろんメロディは『白鳥の湖』だ。息詰まる束縛を、愛情と信じて受け取るしかなかったニナが、あわれで仕方がない。
ニナは母親の視線からどうしても逃れることができない。帰りが少し遅くなれば携帯電話が鳴り響く。爪が伸びただけで母親がハサミを持って飛んでくる。長風呂をしただけで、「何しているの?大丈夫?」と心配される。こんな愛情はもはや拷問だ。
この映画はつまり、アダルトチルドレンが抱える“恐怖”を映像化したものだといっていい。母親の想念が立ちはだかり、ニナは自由に大人になることができなかった。母親からこの上なく大事にされて(厳密には、過干渉を受けて)育った彼女には、自分の性を探求するひまなんてあったわけがない。母親とふたりきりの狭い世界で、母親の価値観を押し付けられながら、毎日オルゴールの人形のように踊り続けてきただけ。それが彼女の未熟な人生の実態なのだから。
監視され、行動を制限されて、それでもけなげに生きてきたニナの息苦しさが、狂気とともに頂点に達していく。自由を奪われた人間は、破滅していくほかない。ニナが迎えた悲劇の結末は、しごく当然に思えた。
濱野千尋(はまのちひろ・ライター)
『ブラック・スワン』5月11日(水)TOHOシネマズ日劇ほか全国ロードショー
カテゴリー:新作映画評・エッセイ
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