シネマラウンジ

views

2159

映画評:八日目の蝉 中西豊子

2011.05.25 Wed

=21年前の誘拐事件、犯人は父の愛人、連れさられたのは私=

監督 成島出 主演 井上真央 永作博美 原作 角田光代

アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.角田光代のベストセラー小説の映画化だが、情感のこもったいい作品に仕上がった。小豆島の場面などは映像ならではの美しくも懐かしい風景がとてもいい。小説も、殆どまる1日、目を離すことが出来ずに読み通してしまった。うまい構成、全編をつらぬくサスペンス、面白くてやめられなかった。映画は小説をほぼ忠実に再現、演者がうまいこともあって最後まで退屈させない。

不倫相手の男は「妻とは別れる」と言いながら、ずるずる関係を続けている。女が妊娠したとき、男は「堕してくれ」といい、それが原因で女は不妊になった。しかしそんなとき、男の妻が出産したことを知った女は、吸い寄せられるように男の家にいく。夫婦が出かけた後、家に忍び込んだ女は、妻が産んだ子を思わず奪ってしまう。

誘拐犯として指名手配される中、逃げ続ける女は、失くした自分の子を育てるかのように、子どもに愛をそそぐ。行く先々で見知らぬ女たちに助けられ、逃避行を続ける。あるときは、カルト集団のような駆け込み寺にも。東京から名古屋、そしてたどりついた小豆島、そこで母子(誘拐犯と子どもだが)は、村人たちの優しさと豊かな自然に包まれて、つかの間の幸せな日々を送る。この子と暮らせる日が1日でも長く続くよう祈りながら。

子どもが4歳のとき、遂に「愛する子」と引き離されるときがくる。女は逮捕されてしまうのだ。

この誘拐犯を演じているのが永作博美、数々の女優演技賞を獲得している彼女はさすがに、静かだが意思を貫き通す女を的確に演じている。そして子役がまた可愛く、4歳児の信じられない名演技だ。そのときの子どもが成長して、自分の過去と今の自分の整理がつかずにいる大学生の姿を、今話題の井上真央が演じている。

心から可愛がって育ててくれたその女を、子どもは母と思いこんでいて、本当の家族のもとに帰っても幸せな日は来ない。突然「愛する母」から離され、見知らぬ男たちに囲まれ列車に乗せられたときから、その子の記憶は途切れてしまう。

両親は子どもが誘拐された被害者でありながら、週刊誌にスキャンダルを書きたてられ、職も家も何度も変えざるを得ない状況に。本当の母親は、帰って来た子どもが自分になじまないことにイラだって、いつも怒ったり泣いたり情緒不安定だし、夫は腑抜けたようになっている。不和は限界状態だ。この家族、それでも家族しているのが不思議だが。

皮肉にも、誘拐された女の子が成人して、また妻帯男を愛してしまう。その男も妻と別れるつもりはなく、やっぱり恋人の妊娠には及び腰だ。彼女の視点で映画は描かれている。

今では、簡単に「不倫」といってしまうけれど、男女の情事には女性が産む性であるがゆえの苦悩が付いて回る。その場限りの嘘を平気でいう無責任男―どこにでもいる―に、はまってしまった女性がここには描かれる。

「愛」だと思っていたことは全くでたらめ。その悔しさや、怒りや悲しみ、一人で引き受けざるを得ないその後の苦悩。後のことまで考えて不倫にはまる人はいないだろうが、子どもを産んで欲しくないなら、男も避妊をする責任があるだろうに。

この映画を見ていて二十年以上も前に作った『からだ・私たち自身』を思い出してしまった。一昔前と違って、今ではいろんな情報も知識もあると思うのに、望まない妊娠を避ける工夫をしない、男と話し合いのできない女性が今もなお多勢居ることに落胆する。相も変わらずの構図にため息が出てしまう。

ところで、この映画には、主に出てくる人は女性ばかりだ。不倫男の影ははなはだ薄い。自分がやらかしたコトの始末もできんようじゃ影は薄いわけだが。赤ちゃんを抱く女性に話しかけるのも、助けるのもみんな女性。他人と繋がる能力は女性の方が長じているからだろうか。優しく受け入れてくれる島の人々に見ている方もほっと安らぐ。ラストシーンは、小説とは変えられていたが、映画の終わり方のほうが余韻を残していてなかなかよかった。








カテゴリー:新作映画評・エッセイ

タグ:映画 / 中西豊子