2011.07.08 Fri
<文革に散った恋>を描くチャン・イーモウのしたたかさ
チャン・イーモウという監督は、中国の国策に巧みに乗じつつ、その卓越した美意識と骨太な演出力で、世界へ向けて万民の胸を打つ人間ドラマを送り出すことのできる、稀有な映画監督だ。そして返す刀で、時にひそかに、検閲には決してひっかからない形で、思わぬ国家批判をしのばせる。後に秦の始皇帝となる王の暗殺を狙う無名の男を主人公(=HERO=英雄)としながらも、最終的にその男が「天下」を優先して暗殺を断念する武侠アクション映画『HERO』は、その最たる例であった(ちなみにこの英雄という漢字が使われたのはワーナー・ブラザーズによる配給された日本公開時のみ。宣伝資料に、わざわざ日本国内のみのタイトル・デザインであるという但し書きがついていたのを記憶している)。しかもそれは、同じ武侠アクションをアメリカで作った台湾出身のアン・リー監督の『グリーン・デスティニー』における武侠の女性化、中国人男性の弱体化とは真逆の、中国男性主体を強化する表象上(王権を強調する縦の構図など)の特徴を持っていた。国家権力を男性主体を通して顕現させることにおそろしくたけた映画であった。
そうであるからこそ、2010年北京オリンピックの開会式・閉会式の総合演出を担当するまでに中国政府の信頼を得たのだろう。しかし、彼の映画は、最初にのべたように、常に、映画と国家の関係を問題化する要素を、忍ばせていることを忘れてはならない。適切な時と場所を得た時、それは懐剣のようにそっと抜かれ、敵の心臓を穿つのだ。
そしてまた、この政治性にたけた芸術家は、近年、在住するニューヨークでは、メトロポリタン・オペラで、テノール歌手ドミンゴ出演、タン・ドゥン指揮のオリジナルオペラ『始皇帝』の演出を手がける(2006)など、在アメリカ・中国人芸術家として、故国・中国の文化的・歴史的遺産を最大活用している。創作を続けていく上での政治的駆け引きが、おそろしくうまい監督といえる。きっと、中国ではそれくらいでないと生き残っていけないのだろう。文革期に下放され、苦難を体験した監督は、むやみに国家に翻弄されぬよう、常に国家対策は怠りないのだ。しかも、芸術的力量にかけてはハンパない。だから、目が離せない。
といった、常日頃抱いているイーモウへ観から、本作『サンザシの樹の下で』も、実は、用心しつつも、かなりの期待とともに、試写に出かけた。サンザシの実を干したの、甘酸っぱくて好きな味だし。樹も見てみたかったし。だいいち、コン・リー、チャン・ツィイーを世に送り出した監督の、新たなヒロインを見てみたいし。今度のイーモウ・ガール(謀女郎)は、どんな風に世に送り出されるのか?
<文革に散った恋>を描くという触れ込みの本作は、それゆえ、もっぱら主人公の高校生役を演じるチョウ・ドンユイ見たさに試写にでかけたのであった。
そして、羊顔の、おそろしく無垢な彼女に出会った・・・(イーモウも年取ったのねえ・・・)
内容は、このヒロイン、ジンチュウが、一九七〇年代初頭、文革の最中に、<身分違いの恋>をする話だ。<身分違い>といっても、農民・労働者・軍人の方が上で、地主・資本家・知識人が下という社会階級の存在していた時代の話である。ジンチュウの父は地主階級出身であるため強制労働に駆り出されており、教師の母親は職場で「再教育」をうけている。対するお相手は、年上の青年スン。都会から農村に派遣された彼女が、住み込み先の村長宅で出会う、この青年スンは、共産党の上層部の息子で、鉱石の調査をしにきているという設定(これが最後の悲劇の伏線となる)。
青年スンを演じるのは、ショーン・ドウ。もしかするとこっちの方がこれから売れるかもしれないと思わせる大物感を漂わせている俳優さんだ。西安に生まれ、十代でカナダに移住し、中国語(標準語)、広東語、英語に堪能で、北京電影学院に進学したという経歴の持ち主(世界に売り出すのね!)。とはいえ本作では、ほんとうにトッポイ(あえて昔の言い方をしてみました)役どころなのだけれど。おまけにやけに歯が白い。若いころの中井貴一を思いきりさわやかにしたような感じだ。
ヒロイン役のチョウ・ドンユイはといえば、予期したとおり、イーモウ監督は、ちょうどチャン・ツィイーにそうしたように、小出しにこの娘の処女性をアピールする作戦。世界に向けて<東洋の清らかな少女>アピールだ。けれど、それが少々くどくて、正直、途中であきた。で、途中から演出をメモった。だってぇ~、定式どおりなんですもの~~
たとえば、彼女に<よちよち歩き>とでもいいたいほど頼りない歩き方をさせる。トッポイさわやか歯白笑顔青年スンから、小さなあめ玉を手のひらにのせてもらう。野原を歩く時は、最初はスンが枝で彼女の手をひっぱっていたのに、だんだんその手をすべらせ、最後には彼女の手をつかみ、やがて、ぽとりとその枝をおとす(何かの比喩?)。あげく、汗水たらして荷車をひっぱる重労働中の彼女のあとをつけ、無理やり休憩させ、「泳ごう」と誘わせる(人目を阻む恋じゃないの?ひやひやしたけど)。おまけに荷車の陰で、恥ずかしそうに赤い水着に着替えるシーンまで用意している。
西洋への<東洋の純情>アピールか。それともお国でも、もうこれを<初々しい>と懐かしむほど、皆、すでにかなりいっちゃってるのか。よくわからないが、なんだか、かえって、このエロ親父とつぶやきたくなった。
ああけれど、やっぱり、チャン・イーモウは、あなどれない。この羊顔のおぼこ娘風チョウ・ドンユイのあまりの純情無垢も、そして、カナダの中国人・若さわやか中井貴一ショーン・ドウのあまりに頻繁な白い歯全開笑顔も、すべては、ラストの、思わぬ<どんでん返し>に向けての布石だったのです。物語上のラストではありません(これ以上いえません)。あくまで、目に見える、映像上の<どんでん返し>です。どうぞ、みなさん、最後までご覧ください。そこに、おそるべきチャン・イーモウの政治的したたかさを、私は見いだしました(違ってたらごめんなさい)。
原作は、エイミーなる中国系アメリカ人(エイミー・タンではないようだ)のものであるとか。宣伝資料によれば、その原作たるや、友人が1977年―文革の終わった翌年―に書いた手記をもとに、中国語文学サイトに発表した小説であるとか。とすれば、これは、やはりアメリカから発信された「文革」批判が原点ですよ。しかし、強烈だったなあ~~ホラーかと思った(不謹慎だけど)。たぶん、ここにイーモウの文革へのまなざしが、もっとも強烈に視覚化された形で表れているのだと思う。
それに比べたら、冒頭、ちゃちゃっと、さして重要でない登場人物の教師(ジャ・ジャンクーの『世界』の主人公役の俳優)に言わせた感じの、サンザシの樹にこめられた戦時中の日本軍批判(樹の下で亡くなった抗日戦争の兵士の血がしみこみ、白い花が赤く咲くという言い伝え)など、単に、国策をなぞっているだけともいえる。もちろん、あの『紅いコーリャン』の日本批判は本気だったけれど。ここは、たぶん、もはやフリ。イーモウはしたたかですもの。台詞に惑わされてはいけません。
それよりむしろ、「言わない」ところ、ヒロインが最後まで彼の名を呼べないところに、思わぬ、ほんとうの<純情>がありました。
一番私的に見応えあったのは、南京芸術学院舞踏学部に申し込んだという、十八歳チョン・ドンユイの「文革ダンス」だ。彼女の母親役の女優もリアリティあった(助演女優賞あげたい)。今年公開される超大作『湖北北去』では、毛沢東の妻役、そして香港の監督、スタンリー・クワンの作品に主演も決定しているらしい。
ああ、きっとクワンに脱がせられるわよ、この娘。そしてもっと踊るのよ。毛沢東の妻役も見てみたい。虫も殺さぬ羊顔が、きっとすごく豹変するんだろうなあ。そのスリリングなモーメントが今から待ち遠しい。やっぱりイーモウはマーケッティング力がすごい。
サンザシの樹の下で
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7/9(土)新宿ピカデリー他全国順次ロードショー!
カテゴリー:新作映画評・エッセイ