2011.08.13 Sat
福島第一原発の事故以来、国内外で過去に製作されたいくつものドキュメンタリー映画が、にわかに注目を集めています。
1986年のチェルノブイリ原発事故から数年後に、数名のプロデューサーによって製作され、当時ごく小規模に公開されたのみで、その後、22年間、眠っていた本作も、その一つといえるでしょう。
さる8月6日(土)より、毎朝10時半からのモーニングショーのみの上映として、東京のユーロスペースで緊急公開されているドキュメンタリー映画『あしたが消える――どうして原発』です。
配給会社マジックアワーの担当者によれば、3週間弱の宣伝期間にもかかわらず、初日には大勢の観客がつめかけたとのこと。 この作品の存在を知った同社が、わずか一ケ月半で作品を公開するに至った経緯と、それにまつわる多くの関係者の尽力は、同社ホームページに、記載されています。映画人は映画人なりに、配給の仕事をとおして、震災以後の日本に社会貢献したいと願っていると、実感させられます。 詳細はこちら
詳細は見ていただくとして、全体的に、55分という短さながら、原発に直接・間接的にかかわった、さまざまな人々の語りを織り交ぜ、原発の安全性について疑問をなげかける内容に仕上がっています。
原発の安全神話を信じつつ原発で働き続け、骨癌で急逝した父の娘、原発の設計に関わった技術者、被ばくした原発労働者、彼らの病状と被ばくの関係を長年にわたりみてきた医師・・・こうした関係者の言葉は、それぞれ示唆にとみ、今となっては、後世の私たちに残された、貴重な証言です。なぜ、これらの証言に、真摯に耳をかたむけ、考える機会をもってこなかったかと、悔やまれてなりません。 被ばく労働者の朴訥とした語りが伝える、おそるべき実態に、今こそ日本社会は目をむけるべきでしょう。
わたしは、チェルノブイリの事故をきっかけとして初めて父親の不審な死に疑問を抱き、被ばくとの因果関係を知ろうと、地道な勉強を始める、26歳の女性の姿が心に残りました。 とりわけ、子供のころに父と訪れた、福島第一原発のすぐそばを再訪し、海を見つめる、さびしそうな姿が忘れられません。
彼女には、ガソリンスタンドで働きながらオートバイ・レースに夢を抱くすてきな夫と、かわいらしい、二人の小さな子どもたちがいます。 生計を支えるために、ミシンがけをする一方で、仙台市内での勉強会に足を運んでいるのです。 映画は、そんな彼女の堅実な生活ぶりを、断片的にとらえながら、なにげない日常に、次第に「放射能の危険」という言葉がはいりこんでくくる感じを、さりげなく、伝えています。
そんな姿が、わたしたちの今と重なります。
さりげなく――と、わたしはさきほど書きました。
けれど、もちろん、製作者の側には、原発の安全神話に警鐘を鳴らしたいと願う、強い問題意識があったはずです。
「さりげなく」とわたしが書いたのは、3:11以後、より生々しい映像や証言やデータの数々をつきつけられ、もはや、この映画の問題提起の仕方に、なにか物足りなさすら覚えてしまう、おそるべき倒錯をした観客としてのわたしがいるからです。
悲しいことに、わたしたちは、この映画の観客としては、もはや少々知りすぎているのかもしれません。
けれど、逆説的ながら、だからこそ、この映画は、今、あらためて多くの人々に見られることに、意味があると思われます。
なぜ、22年もの間、この映画は、人々の目に触れる機会を、得ることができなかったのか?
そう仕向けたのは、誰か? 電力会社か? 社会か? 国家か? さまざまな利害関係のからみあう地域か?
いや、そうしたことにあえて関心を向けなかった、この数十年間のわたし自身も、含まれているのではないか?
自問自答を繰り返しながら見ることに、22年前の過去から、ようやく「今のわたしたち」に届いた、この小さなドキュメンタリー映画の、新たな意義があるのではないでしょうか。
ドキュメンタリー映画『あしたが消える―どうして原発?―』(デジタルリマスター版)(1989/日本/55分/カラー/デジタル)
上映:2011年 8月6日(土)より渋谷ユーロスペースで、毎朝10:30より一回のみ、モーニングショー。
作品詳細
製作: 平形則安/溝上潔/里中哲夫
構成演出: 千葉茂樹、中嶋裕、田渕英夫、金高謙二
提供: 原発を考える映画人の会
配給・宣伝: マジックアワー+シネマディスト
公式サイトはこちら
カテゴリー:新作映画評・エッセイ