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『家族X』評   とり残される家族         伊津野 朝子 [学生映画批評]

2011.10.13 Thu

夫と息子のために食事をつくり、洗濯をしてシャツにアイロンをかける母親の気持ちとは一体どんなものだろうか。そしてその母親を誰も気にかけず、遂に彼女がゆっくりと崩れていく様子を目撃した家族はどうなるだろうか。

初めから終わりまでずっと不快感につつまれ、途中で劇場を出ようか迷ったほどだ。それは終始用いられている手持ちカメラのせいだけではない。南果歩の横顔があまりにも恐ろしいのと、この橋本家という架空の家族があまりにもリアリティがありすぎていたためだ。私のすぐ隣に住んでいる家族にも同じことが起こっているかもしれない。その隣の家族にもその隣の家族にも。私が気分を悪くしてどこかに逃げたい気持ちにかられたのは、家族という我々のすぐ身の回りにいるこの恐ろしい存在のせいなのである。

家族をテーマにした作品は数多い。古くは小津安二郎監督の『東京物語』(53)は家族のつながりと喪失を描いていた。新しくは黒沢清監督の『トウキョウソナタ』(08)は再び向き合う家族の姿を映している。家族を描いた作品は数えられないほどあり、どの時代にもそのテーマを考える映画作家たちは存在した。家族について考えるよりも、家族の終着点を見せつけられたのがこの吉田光希監督による『家族X』である。

 本作はほとんどホラー映画のような雰囲気がただよっている。台詞がほとんどないためだけではない。吉田監督がこだわったという映画の舞台である、家族の住んでいる家のせいなのだ。家のポイントは家族三人を綺麗に分断させる仕切り、つまり壁にある。どこにでもあるような2階建ての家屋は家族3人がそれぞれ個別の部屋を保有していて、どうかしたら1日に一度も顔を合わさない。息子の部屋へ続く2階への階段は玄関から直接つながっているし、夫の部屋へも玄関から直接行き来できるようになっている。

 南果歩演じる母親は二階に寝室を持っているが、ほとんどの時間を家族の唯一の共有スペースであるリビングですごしている。趣味や生活のほとんどはこのリビングに集中していて、彼女は映画の終盤にかけてこの場所で妖怪のようになってゆく。

 スーパーから自宅に戻る足早な南果歩を、カメラは背後からそっととらえている。その背中は日々の妻としての母親としての彼女ではなく一人のとり残された者だ。彼女はゆらゆらと崩壊への道を進んでゆき、悲しみや怒りを超えたところでついに狂う。

かつての温かい家族はどこにいったのだろうか。とり残された者の表情は多くの言葉を必要とはしない。また同じ場所に戻ってきてほしい。ラストには大きな疲労感の中にゆるやかな風が吹いていた。ここから再び歩み始め、人生は続いていく。

(日本大学芸術学部映画学科3年 伊津野朝子/いづのあさこ)

『家族X』

(吉田光希監督/日本/2010)

(C)PFFパートナーズ

ユーロスペース他にて全国順次公開中!

公式HPはこちらwww.kazoku-x.com

カテゴリー:新作映画評・エッセイ

タグ:くらし・生活 / 映画 / 家族 / 伊津野朝子 / 女と映画 / 邦画

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