2011.10.27 Thu
愛する者の喪失によって生じる複雑な心理的・身体的・社会的反応を、悲嘆(グリーフ/grief)とよぶらしい。本作に登場するヒロイン、ベッカ(ニコール・キッドマン)は、その意味で、悲嘆のただなかにいる。
数か月前、愛する幼い息子を、目の前で、交通事故により亡くしたのだ。犬を追って道路に飛び出した息子が、たまたま通りかかった高校生の車にひかれるという不運な事故だった。
誰をも責めることができないゆえに、主人公の苦悩は、おさまりどころを失い、やがて他者への激しい攻撃性となって噴出する。親友とは連絡をたち、夫の苦しみには背を向け、妊娠中の妹と口論し、実母の気遣いを否定し、「神の御心」に救いを求める遺族会のメンバーには非難の声をあげるといった風に。
ヒロインの傷ついた自我を、製作・主演のニコール・キッドマンが、もちまえの内面性を感じさせる演技で美しく激しく見せ、2011年アカデミー賞主演女優賞にノミネートされた。
が、彼女が演じる女性ベッカの、自己中心性には、違和感を抱かされた。 スーパーで見知らぬ母親の子育てに口をだし、「あなた母親Momじゃないわね」と言い返されて、思わずその若い母親の頬を子どもの目の前で平手打ちするシーンなど、正直、首をかしげたくなる場面もあった。 母親経験のある女性がこんなことするかなあ・・・(なくてもしないだろう・・・)
原作は、ピューリッツァー賞を受賞したデヴィッド・リンゼイ=アベアーなる白人男性作家の一幕物の戯曲。 映画化にあたりシナリオも担当したというが、息子を亡くした母親の苦悩を、かくも傷ついた獣のごとき猛々しさで描くのは、彼自身の男性性の反映ではないか(写真をみるとエラクごつい顔をしている)、ブルーカラー出身であるとあえて公言する原作者の、粗野な荒々しさが、主人公に仮託されているのではないか・・・
キッドマン演じる女性と夫の、いかにも白人中流階級的なライフスタイルと、彼女の実家の多人種的・猥雑なライフスタイルのギャップも、妙に、ちぐはぐだ。 もしかして、原作は、すべてダウンタウンを舞台にしており、映画版のみ、キッドマン向けに、知的セレブ風の女性像に書き換えたのではないか・・・?
などと、ヒロインの攻撃的言動に共感できぬまま、つらつら余計なことを考えながら見ていると、しかし、映画は、後半、思わぬ方向へと、観客を導いてゆく。
そこからが、『不思議の国のアリス』を想起させる題名を掲げた本作の、みどころだ。
ある日、加害者の少年の姿を見かけ、追跡し始めたヒロインは、ちょうどアリスが、白ウサギを追って穴をおち、ノンセンスで不条理な「ワンダーランド」にたどりついたように、魂の不可思議な領域にさまよいこんでゆく。
少年と公園で苦悩を分かち合う、不思議に静謐な時を過ごす内、彼女に示されるのは、「パラレル・ワールド」(並行宇宙)なる、物理学の先端理論に支えられた新しい世界観だ。 この世のどこかに別の世界が存在し、そこではそれぞれ別の自分がいて、幸せに暮らしているかもしれない・・・
古来、あらゆる小説、戯曲、映画が希求してきた「もう一つの世界」の存在が、ここでも、袋小路に陥ったヒロインの心に、ある種の啓示をもたらす。 カウンセリングや宗教では得られない魂の救済が、先端科学の理論(その先にはスピリチュアルな世界観が広がる)を通して果たされる点に、アメリカの今が、表れているように思われる。 科学的思考と霊的体験の融合や、超越的/トランセンデンタル体験を経て、魂が覚醒するくだりも、きわめてアメリカ的な解決策とみた。
啓示の時は、モンタージュという映画独自の技法によって、観客に示される。 卒業式に向かう加害者の少年の「旅立ち」の時と、フラッシュバックで示される幼い息子の命が失われる「喪失」の瞬間が交差し、その中で、ヒロインの意識が、説明不能な変革をへて、新たな次元へとたどりつくさまを、観客は、一連のモンタージュを通して、目撃することになるだろう。 その時、初めて、彼女は大量の涙を流し、息子の死を受け入れる。 夜が明け、朝が来て、鳥の声が聞こえ、彼女は、アリスがそうしたように、目を覚まし、日常に戻ってくるのだ。 悲嘆をのりこえて。
かの『不思議の国のアリス』では、ウサギ穴を通り抜けたアリスが、ノンセンスな「ワンダーランド」体験を通して、自らの少女時代の喪失と成長を体験したものだが、ここでは、鬱という精神のウサギ穴に陥った母親が、息子の喪失と、(息子の代理である少年の)成長という、男性的他者の時間を体験することで、悲嘆を乗り越える。 このモンタージュ場面に、わたしが、違和感を抱いたとすれば、ここに、原作者リンゼイ=アベアーの、きわめて男性中心主義的な「不思議の国のアリス」再解釈が、見えたからだった。
とはいえ、映画の中には、ヒロインが下りていく、もう一つの「穴」が存在し、そこには、濃密な女性の時間が流れていることは、特筆に値する。 息子の遺品を片付けるために下りていく地下室で、ベッカは、内心ひそかに軽蔑している無教養な母親から、思わぬ英知あふれる言葉を与えられ、立ち止まるのだ。
「悲しみはいつまでも続いて、けっして無くなりはしないの。 大きな岩がポケットの中の小石になるみたいに・・・それは、残り続けるわ・・・でもそれはそれで・・・・」
初めて母をふり返り、次の言葉を待つ娘に、母は、少し間をおいた後で、不器用に言葉を続ける。 「いいのよ・・・」 この母もまた、かつて息子を薬で亡くした喪失の苦しみを乗り越えてきた人なのだった。 娘としてのベッカは、その母の苦しみを、私の苦しみとは違うと否定してきたのだったが、この時、初めて、二人の間に、気持ちが通いあう。 そしてそれは、悲嘆のただなかにあったベッカにとって、来たるべき再生への予兆となるのだ。 身近な人からのグリーフ・ケアとは、このような瞬間をさすのだろう。
「でも、それはそれで・・・いいのよ」 ” …, which is fine.”
ウッディ・アレン映画でおなじみの名わき役ダイアン・イーストの滋味あふれる笑顔とともに、この関係代名詞の、不器用な非制限的用法ともいうべき言い回しが、いつまでも、心に残る。
喪失感を抱えながら生きていくことも悪くはないと、思わせてくれる瞬間だった。
『ラビット・ホール』 (2010年/アメリカ/英語/1時間32分/35㎜)
原題:Rabbit Hole (c) 2010 OP EVE 2, LLC. All rights reserved
公式サイトはこちら
監督:ジョン・キャメロン・ミッチェル
脚本:デヴィッド・リンゼイ=アベアー
製作&主演:ニコール・キッドマン
共演:アーロン・エッカート、ダイアン・ウィースト、マイルズ・テラー(新人)
11月5日(土)より、TOHOシネマズ シャンテ&ヒューマントラストシネマ渋谷にてロードショー!
ほか全国順次公開
カテゴリー:新作映画評・エッセイ
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