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『サルトルとボーヴォワール 哲学と愛』 究極のネーム・ドロッピング映画 川口恵子

2011.11.24 Thu

<哲学>という、ハリウッド映画には決して真似のできない分野に着目し、フランスが世界に誇る実存主義カップル「サルトルとボーヴォワール」の「出会い」から「誕生」までを、彼らの実践した<自由恋愛>の「現場の数々」と時代風俗をとりまぜ、年代記風に描いた映画――と、最大限、好意的に評価することも可能な映画だ。映画の世界も、グローバル市場における対米対策が必要なのだから。

 世界市場で覇権をにぎるハリウッド映画に対抗するためには、各国ともに、自国のなけなしの歴史的・文化的遺産や文化的神話を動員し、<その国らしさ>をほどこして、世界映画市場にうってでなくてはならない。イギリスが、『英国王のスピーチ』で、アメリカには存在しない<王室>と正統派ブリティッシュ・イングリッシュを資源に成功をおさめたように。フランスの場合は、『シャネル&ストラヴィンスキー』、『エディット・ピアフ 愛の賛歌』のように、<高級ファッション>や<シャンソン>の分野で近年成功している。

本作も同様の路線。ただし、比重をおいているのは、<哲学>ではなく、ピューリタン的伝統をもつハリウッド主流映画には描けない<自由恋愛>の方。つまりは、映画の大衆性と相性のよい<セックス>だ。とはいえ、なぜかボーヴォワールとアメリカ人作家の性描写のみ、彼女が初めてそれで快楽を知ったかのように(?)濃厚に描かれているだけで、あとは子供のお遊び程度の気軽さで描かれているのが特徴。アメリカ人作家との場面は、後述する、彼女が知識人として、アメリカで認められたシーンの直後に描かれたと記憶している。おそらく、そこでこそ、フランス人知識人女性の身体が、アメリカ人男性によって貫通される必要性があったのだろう。アメリカ市場を意識したものと思われる。 ともあれ、『招かれた女』の日本語訳を大学時代に読んで感銘をうけた程度のボーヴォワールの読者としては、同書に描かれた、サルトルと若い女とボーヴォワールの三者間をめぐる欲望の連鎖がどう描かれるのかが楽しみにしていたのだが、期待外れに終わった。

<哲学>は、もちろん最初から描く気はない。著作の引用もない。あっても困るが・・・ラスト近く、聴衆の前で演説するサルトルの前に、ボーヴォワールが現れ、人々の手が彼女のために椅子を運び、彼女がサルトルの傍らに座ったところで、「実存主義万歳」というエールが沸き起こるといった表面的な描写にとどまる。あとは、ハイデッガーの名前が、サルトルと彼の一時的愛人タニアとのベッド・トークで口にされたり、フッサール、メルロ=ポンティの名前が、サルトルからボーヴォワールに向けた会話の中で、言及される程度。カミュやモーリヤックといった作家も、二人の交友関係を彩る存在として顔を出す。ポール・ニザンもサルトルの親友として出ていたようだが、記憶にない。ストーリー展開に関わる台詞も演技もなかったせいだろう。若い俳優たちも、その名前を呼ばれるためだけに出演しているかのようだ。目まぐるしく移り変わる場面展開の合間に、彼らは少しだけ顔を出しては、名前をよばれ、跡形もなく消え去る。究極のネーム・ドロッピング映画なのだ。

ボーヴォワールを演じるのは、アナ・ムグラリス。フランス映画が世界市場に打って出る時、よく用いる、バルドー以来の大口女優の系譜に属する(ファニー・アルダン、ベアトリス・ダール、エマニュエル・ベアールなど)。ただし、ギリシャ人医師の父をもち、英語、イタリア語、スペイン語、ギリシャ語が堪能という才女というふれこみだ。2002年にカール・ラガーフェルドの抜擢により、シャネルの香水「アリュール」のキャンペーン・モデルを務め、2009年には『シャネル&ストラヴィンスキー』で、主役のココ・シャネル役を演じた。さすが、ニューヨーク大学を出たパリ在住の小説家・監督のイラン・デュラン=コーエンの着目点は、ファッショナブルだ。

そのムグラリス演じるボーヴォワールに、唯一(!)、映像的に「ああボーヴォワールだ」と思わせられるシーンがあった。皮肉なことに、それは、後ろ姿。招へい先のアメリカで、酒場でアメリカ人たちに囲まれ、談笑した後、すっと立ちあがり、去っていく後姿だった。その時、たしかに、ここで「知識人ボーヴォワール」という主体が立ちあがったと見ていて思った。いわゆるキャラ立ちの瞬間だ。どういう映画にも、これがないと、主人公が生きない。いただけないのは、その瞬間、彼女の周縁に配置されていたのが、間の抜けた英語を話すアフリカン・アメリカン女性だったこと。外面をなぞるだけで、彼女の知識人としての側面をほりさげて描こうとしない本作としては、おそらく、そのアフリカン・アメリカン女性を他者化することでしか、彼女の「知的主体」を際立たせることはできなかったものと推察する。凡庸なオリエンタリズムの一種だ。

原題はLes Amants du Flore 「フロールの恋人たち」。今や観光名所として名高いサン・ジェルマン・デ・プレのカフェ・ド・フロールで友人たちと群れ集い、議論する姿だけは、パリのカフェの雰囲気をうまく出しており、嫉妬させられた。<カフェ>もまたアメリカにはないフランスの文化的神話だ。冒頭の図書館やソルボンヌ大学キャンパスも含め、パリの知識人を描くのに、低予算でロケーション撮影を行っている風がみてとれ、涙。

ラスト、「サルトルとボーヴォワール」誕生の瞬間は、短いが、説明的でなく、映画的で見事。そのあと続く、ボーヴォワールのその後を要約した字幕には、疑問が残った。そちらは、議論の俎上にのせるに値する。その意味で、お見逃しなく。

フェミニストには、おおいなるクエッションマークがつく、ボーヴォワールの生涯の要約の仕方だ。

 『サルトルとボーヴォワール 哲学と愛』(2006年、フランス、105分)

©PAMPA PRODUCTION-FUGITIVE PRODUCTIONS-MMVI

   公式HPはこちら

 11月26日より、ユーロスペースほかにて公開

 配給:スターサンズ

カテゴリー:新作映画評・エッセイ

タグ:女性運動 / フェミニズム / 川口恵子 / フランス映画 / 女性表象