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イラン映画 『別離』 イスラム法と女性・社会・家族 川口恵子 

2012.04.03 Tue

イスラム法と女性・社会・家族              

Iranian version of LAW AND ORDER: Nadar and Smin. A Separation    Text by Keiko Kawaguchi

イラン映画初のアカデミー賞外国語映画賞を受賞した本作は、首都テヘラン北部富裕地域に住む離婚寸前の中流階級夫妻と、南部に住む貧しい下層階級の夫妻の間に起きた「訴訟」問題に焦点をあて、ゆき過ぎたイスラーム化政策がもたらした弊害と軋轢、女性の社会進出がもたらす家族の変容、特に老親介護の問題、そして、法では解決できない民衆の心をあぶりだす傑作だ。

切れ味のよい台詞劇仕立てで社会問題を次々あぶりだす手法が、アメリカの人気TVシリーズLAW & ORDER(法と秩序)を思わせる。前半が刑事ドラマ、後半が検事中心の裁判劇仕立てで、事件の背後に潜む社会的矛盾や不条理を照射した後、法の下、罪のありかを問い、裁きを下すきわめてアメリカ的なTVドラマだ(日本でも放映中)。

ただし、このイラン版「法と秩序」においては、罪は、個人には帰せられない。問われているのは、人の生のありようを根本で規定する法の側、イスラーム法の側だ。 急速な西洋化・近代化への反動として反米・イスラーム化を旗印に掲げた1979年のイラン革命以後、それは社会のすみずみまで覆い、人々の生活を窮屈なものにしているという。ヴェール着用と公共空間での男女隔離原則はその最たるものだろう。だからこそ、邦題が掲げるごとく、同じ家族内で国を出ていくか、とどまるか選択を迫られ、「別離」が生じる。自身、国を出てパリで映画を作り続けるアスガル・ファルハーディー監督の視線は、伝統的に深い絆で結ばれた親子や夫妻の関係に切断をもたらす、故国の法と社会の関係に、鋭くメスを入れるものだ。

 

国外移住するか、とどまるか? 

最初に登場するのは中流階級カップル、ナーデルとスィーミーンだ(写真右)。ナーデルは銀行員で、スィーミーンは英語を教える女教師。家庭裁判所らしき場所で、二人が観客に向かって真正面から、それぞれ離婚を申し立てている。国を出るか、とどまるか、二人の離婚申し立て理由はそこにある。妻は、一人娘の将来のためにカナダ移住を希望し、夫は、アルツハイマーを発症した老父を残してはいけないと主張する。両者の言い分はそれぞれ離婚理由として認められず却下されるのだが、重要なのは、国を出るか否かという、映画のラストまで持ち越される選択が、こうして観客の前に正面きって前景化される点だろう。

 介護は誰が担うのか?

映画の争点は、国外移住の是非にとどまらない。スィーミーンが夫と娘を置いて家を出た後、たちまち生じる介護問題がここで浮上する。夫ナーデルの焦る姿が印象的だ。ここで介護を担うべく登場するのが、家政婦として雇われた貧しいラーズィエ(写真左)である。敬虔なイスラム教徒である彼女は、妻は夫に従うべし、夫は妻子を扶養すべしと定めるイスラム法を犯していることに後ろめたさを覚えつつ、失業中の夫に隠れて家政婦仕事を引き受けた。失禁老人の後始末を引き受けねばならない場面で、彼女が、宗教的に合法かどうかを電話で問い合わせる場面は、どこかコミカルで、ゆきすぎたイスラーム化政策に対する揶揄か、と思われる。親族以外の男性の肉体や排せつ物に触れることが問題となるイスラームでは、介護職がなりたたない。

信仰

しかし、ラーズィエの信仰心自体は、むろん、揶揄の対象ではない。身重の体で娘を連れ、2時間もかけてバスで家政婦仕事にやってくる彼女の困難な生活を精神的に支えているのは、まさにこの信仰心にほかならないのだから。彼女を笑うことは誰にもできない。 とどのつまり、貧困ゆえにナーデル・スィーミーン夫妻に徘徊老人の世話を押しつけられたあげく、盗みの汚名まで着せられ、流産に至るという精神的・身体的傷を負ったのは、この無学で、抑圧された、明晰に言葉化できない苦しみを背負っているラーズィエなのだ。彼女にとって、アッラーの教えに従って生きることは、唯一の救済なのだろう。とはいえ、彼女は決して犠牲者的ヒロインにとどまってはいない。彼女がナーデルやスィーミーンに猛然と抗議の声をあげる場面は、本作のみどころの一つだ。

失業・貧困そして<名誉>

彼女の失業中の夫ホッジャト(写真左)もキレやすいトラブルメーカーだが、名誉を何より重んじる熱い男である(サッカーのイラン代表たちを思い出すなあ!ダエイはいい男だった!)。 ラーズィエの敬虔さと、ホッジャトのプライド。 監督は、この夫妻を、国にとどまり続けて生きるしかない庶民の代表として、近代的・合理的・資本主義的価値判断の下に動くナーデル・スィーミーン夫妻の姿に対峙させているようだ。それが最も端的に提示されるのは、こじれにこじれた訴訟が、ようやく示談で解決するとみえたその時訪れる、アンチクライマックス場面だろう。妻ラーズィエのとった行動は、西洋的合理主義の価値判断で説明できるものではない。だからこそ、妻の行動原理を根底で理解している夫ホッジャトは、やりきれなさに荒れ狂う。

悲惨な現実―イラン社会のあるべき未来は?

それゆえ、「なぜ家に来たのか?」と絶望の叫びをあげるラーズィエを前に、美しく教養あふれるスィーミーンは、ただ、声を失い、立ち尽くすだけだ。彼女に、ラーズィエの陥った苦境に対する法的責任はないが、すべての事の始まりが、家を出た彼女の決断にあったとしたら、はたして彼女に道義的責任がないといえるだろうか。スィーミーンは本作の顔だが、監督のまなざしは、明らかに、残された夫の困惑と、ケア労働を介して、彼らの問題に巻き込まれたもう一組の夫妻のより悲惨な現実に注がれている。物語の途中、カメラの焦点がすっと移動し、大人社会の迷走を見つめる娘(写真左。監督の実の娘が好演)の視線がとらえられる。その視線は、イラン社会のあるべき未来を問いかけているようだ。

スィーミーンを演じるのは、国際派女優レイラ・ハタミ(写真右)。映画監督の父と女優を母に持ち、6才のときイギリスで家族と休暇を過ごしている間にイラン革命がおきたという。高校卒業後はスイスに留学。フランス語を完璧にマスターし、イランに帰国。監督アリ・モサファとの間に一男一女の子をもつ母でもある。非西洋圏の映画が、国際市場で成功をおさめるには、その国の「顔」となる女優が必須アイテムだが、西洋的風貌の彼女なら、受け入れられやすいに違いない。 本作では、ただし、ラーズィエ役のサレー・バヤトが圧巻。ベルリン映画祭で女優賞が全女性キャストに贈られたのも無理はない。

壊れていく男たち

娘の教育に熱心で、老父に孝行を尽くすナーデルもまた、ラーズィエの流産に対して法的責任を問われると、一転、自分の生活を守るために、エゴイストとなる。

妻に出て行かれたあと、痴呆症となった老父の体をケアしながら男泣きにむせぶ姿には、よき父・よき息子たろうと必死になるあまり、孤立し、壊れていく男の悲しさも描かれている。 イランで男として生きるのも、きつそうだ。 それにしてもここに出てくる夫たちは、妻に対してきびしいなあ。父には優しいが――

 無名の民の声

こうして、ラーズィエの流産が引き起こした訴訟問題は、それぞれの夫妻の苦悩をさらけ出す形で紛糾した後、終盤、いっきに、いったい、何が彼らを追いつめているのか、裁かれるべきは何なのかという根本的命題へと観客を向かわせる。 社会、宗教、法の抱えるさまざまな矛盾と不条理が、物語の背後からせり上がってくるのだ。映画というメディアが、ある社会の深層に隠された民の心をすくいとり、なおかつ社会的矛盾をスクリーン上に表出せしめる稀有なモーメントがそこにある。イラン国内で人気を博したのみならず、ベルリン国際映画祭金熊賞を受賞し、全女性キャスト、全男性キャストに銀熊賞(男優賞・女優賞)が贈られたのもうなずける。 ここに出てくる人たちは、スィーミーンをのぞき、ひどく人間臭い。 皆、生き抜くことに必死なのだ。

 ラスト、裁判所の待合室に響く無名の人々のざわめきが、翻訳されないままに、声にならない不安を観客に伝えている。

 『別離』 4月7日(土)より、Bunkamuraル・シネマほか全国ロードショー (C)2009 Asghar Farhadi

 ※第21回アジアフォーカス福岡国際映画祭上映時タイトル「ナデルとシミン」“A Separation”を改題

 製作・監督・脚本:アスガル・ファルハーディー

出演:レイラ・ハタミ、ペイマン・モアディ、

シャハブ・ホセイニ、サレー・バヤト、サリナ・ファルハーディー、

ババク・カリミ

撮影:マームード・カラリ

編集:ハイェデェ・サフィヤリ

2011年/イラン/123分/カラー/デジタル/1:1.85/ステレオ/ペルシア語

原題Jodaeiye Nader az Simin

英題Nader and Simin, A Separation

日本語字幕:柴田香代子 /字幕監修:ショーレ・ゴルパリアン

 配給:マジックアワー、ドマ

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カテゴリー:新作映画評・エッセイ / 映画を語る

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