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往復書簡② イラン映画『別離』について 佐々木あや乃x川口恵子

2012.05.07 Mon

本年度アカデミー外国語映画賞受賞作イラン映画『別離』について、ペルシア文学をご専門とする東京外国語大学大学院総合国際学研究院 言語文化部門准教授 佐々木あや乃氏にWAN映画欄コーディネーター川口恵子がお話をうかがいました。

二人の対照的な女性

川口:二人の対照的な女性を登場させるのは映画の常套手段ですが、この映画では、とても興味深い形で、スィーミーンとラーズィエの対比を持ち出しています。映画の中で、二人の女性を登場させる仕方も興味深いものでした。この二人の対比について、佐々木さんはどうとらえましたか?

佐々木:スィーミーン自身の細かい思考は、はっきりとは描かれていなかったと思います。彼女はひたすらカナダへの移住を強く主張し、「ナーデルは夫としては申し分ない」と夫の人間性をきちんと認めている妻である、ということしかわかりません。ただ、彼女の実家がかなり裕福で、彼女自身も英語が堪能な女性(イランでは小中高校の教師は薄給のため、社会的にあまりステータスが高くないのですが、スィーミーンはプライベートの語学学校の教師なので、社会的地位も一般の学校教師より高く、待遇もよいと思います)として描かれていますので、ファルハーディー監督はまずは「貧富」を念頭に、この2人の女性を登場させたのだと思います。

また、理性的・論理的に物事を考える女性(比較的高学歴な女性に多いと思われますが)の代表がスィーミーン、情けない夫であっても彼を立てかばい続け、情にあつい敬虔な女性の代表がラーズィエ、という見方も可能かと思います。現代社会で我々も常に直面する「革新と伝統のせめぎあい」とでもいいましょうか。イランの場合「伝統」といいますと、イスラームの教えにしたがった生活規範というものが欠かせませんので、ラーズィエがナーデルの父親の体に触れられない、汚物は不浄なので手がつけられない、というのも、我々が想像する以上に大きな問題として彼女にのしかかっています。このあたりが、イスラームに馴染みの薄い日本人にとってはなかなか理解し難い点かもしれませんね。

スクリーンに多く登場したのはラーズィエの方ですが、彼女の行動や発言の中で、イスラーム的でわかりにくいと思われた点があったら教えていただけますか。

川口:二人の対比は、彼女がスィーミーンの運転する高級そうな車の後部座席に乗ったところから非常に興味深く見ていました。その時はまだ、ラーズィエがそこから物語のカギを握る人物になっていくとは思えなかったのですが、ふっとカメラの焦点がスィーミーンから後部座席の彼女に移ったので面白い撮り方をするな、と思ったのです。その時すでに、奥さんのいない男性の家に家政婦として行くのは宗教的にまずいのではないか、とラーズィエは不安感を口にしていましたね。そこではっきりと、娘や老父に構わず家を出た近代的なスィーミーンと家事労働を請け負うラーズィエの伝統性が対比的に出ていました。ナーデルの老父の失禁場面に遭遇して宗教的に許されるかどうか、電話で問い合わせたところは、私はコミカルな場面として笑ってしまったのですが、イランでも笑うのでしょうか、気になります。どこに電話したのかな、という素朴な疑問も、あとでもちました。

とは言え、私がもっともわかりにくいと思ってお聞きしたいのは、彼女がなぜ、最後まで、夫に対して嘘をついていたのか、というところです。「イスラーム的」な理由ゆえなのでしょうか?だとしたらそれは、どういう点で、「イスラーム的」といえるのでしょうか?

妻の嘘

佐々木:生活における信仰・信条上の疑問に答えてくれるのはイスラーム聖職者で、暮らしの中での疑問を解決すべく、彼らに電話で問い合わせるのは、イランでは珍しくありません。コーラン(イスラームの聖典)やハディース(預言者の言行録)に記されていることだけでは、21世紀の現代では解決できない疑問は多々あって当然ですから。したがって、イランの映画館では笑いは起きないと思います。こうした迷いや疑念をもち、それを解決しようと問い合わせをするという行動は、「形だけのムスリム」を演じている家庭には縁遠いことでしょうけれど。

ラーズィエが夫に嘘をついていたというのは、ナーデルの家で働いていたことを隠していたということでしょうか。そうだと仮定すると、それには2つ理由があると私は考えます。

1つは夫の面子を守るためです。彼女の夫は、失業し、借金し、人生にやけになっている男です。一家の主として家計を支えたくてもうまくいかないのです。自分が無収入だから妻が働かざるをえない、妻を働かせていると甲斐性のない夫として世間から冷たい視線を浴びる、というのはイラン人男性に限らず、世界中の大半の男性にとってはカッコ悪い、できれば避けたいことなのではないでしょうか。

イスラームの問題

いま1つは、イスラームの問題です。ラーズィエが出勤した日、初めてナーデルの老父は失禁してしまいました。彼女は当惑し、彼女なりに手を尽くし四方八方電話で連絡したり問い合わせたりした挙句に、やっとの思いで老人の服を取り換えたわけです。問い合わせをした聖職者が最終的になんと答えたのかさだかではありませんが、積極的に「他人であっても下の世話をしてからだに触れてもかまわない」とは言わなかったはずです。ラーズィエは悩んだ挙句、1人の人間として良心の痛みに耐えかね、やむを得ず老人に触れ、着替えさせ世話を焼かざるをえなかったのかもしれません。でも、いくら認知症の老人とはいえ、男は男、彼女にとっては他人の異性です。身内以外の男の人のからだに触り、裸体を目にし、その汚物を処理するというのは、敬虔なムスリムにあるまじき行為です。ナーデルの娘テルメですら、祖父の素足を見せないため、ナーデルが娘に祖父の部屋から出るよう促すシーンもありました。ラーズィエは赤の他人、ヘルパー兼家政婦ですから、彼女がどれだけとるべき行動に迷いを憶えたか、戸惑うのは当然でしょう。ラーズィエの幼い娘、ソマイェですら、母親に向かって「(今日ここで目にしたことは)パパには言わない」と言うシーンがありましたから、ラーズィエの家庭がどれほど敬虔かということがわかります。今思い出しましたが、イラン映画史上でも、90年代後半あたり、「赤」というタイトルの映画の中に夫が妻の頬を殴るというシーンがあり、俳優どうしが異性に素手で触れる、と大きな話題になり、それだけで観客動員数が増えたという珍事件(?!)がありました。イラン映画では、それまではこうした描写は完全にタブーだったわけです。ラーズィエに戻りますが、女主人が不在で、認知症の異性の老人の世話もしなければならないような家に仕事に来ていたことが夫に知れれば、夫が怒ることは火を見るより明らかです。まして人生につまずいて精神的に不安定になっている夫ですから、ラーズィエは暴力をふるわれてしまうかもしれません(どこかの場面で「夫は私を殺すかもしれない」と言っていました)。ですから、「自分がこの家に来ていたことは夫には知られたくない」と思うのは、ラーズィエとしては当然です。

盗人呼ばわりされてラーズィエが怒る、というのは、「嘘は大罪」と説くイスラームの教えに照らし合わせればイスラーム的ともいえますが、私たち日本人にも十分理解できますね。あれは、よく思い返してみると、ピアノ運搬人にスィーミーンが追加で手間賃を支払ったのであって、ラーズィエは決して盗みを働いてなどはいません。夫婦の擦れ違いや会話のなさによって生まれた誤解によって、ラーズィエはとんだとばっちりを食った形になりました。結果的には、それが本作のストーリーが展開し、ドラマが深まるきっかけになっているわけですけど。

また、川口さんのおっしゃる「嘘」が「ラーズィエはナーデルのせいで流産したのではない」ということであるなら、やはり彼女の家庭がお金に困っていたことは大きいでしょうね。裕福な相手を訴えれば、拘束を嫌う金持ちが示談金を払うに違いないと予想する程度の知恵は、ラーズィエにも十分あったはずです。それどころか、ラーズィエ自身は高等教育を受けていないかもしれませんが、賢い女性です。夫を救うためであれば何でもする、という献身的な彼女の姿勢には要所要所で私ははっと胸を打たれる思いがしました。ただし結局、信心深い彼女は、突き詰めると何が原因で流産したのかわからないとスィーミーンに告白し、神を怖れ、かわいい娘に不幸が訪れるのではないかと逡巡し、お金を受け取らない方を選ぶわけですけど。また、この嘘にはイラン人の「面子」の問題が加わり、彼女が進んで嘘をつくことに拍車がかかったともいえます。彼らは日本人以上に世間体や面子を気にする人々なので、自分が泥棒呼ばわりされたことに我慢ならず、「裕福なのだから、少しくらいこちらに分けてもらったっていいじゃない」といった、一種復讐にも似た思いがラーズィエの気持ちの奥深くに芽生えてしまったであろう可能性も否めないでしょう。感情にまかせて「ついとってしまった行動やうっかり口にした言葉」つまりはエゴイズムの表れの重要性を突きつけてくるのも、ファルハーディー監督らしい描き方です。

第三回に続く

『別離』

4月7日(土)より、Bunkamuraル・シネマほか全国ロードショー

(C)2009 Asghar Farhadi

 ※第21回アジアフォーカス福岡国際映画祭上映時タイトル

「ナデルとシミン」“A Separation”を改題

製作・監督・脚本:アスガル・ファルハディ

出演:レイラ・ハタミ、ペイマン・モアディ、

シャハブ・ホセイニ、サレー・バヤト、サリナ・ファルハディ、

ババク・カリミ

撮影:マームード・カラリ

編集:ハイェデェ・サフィヤリ

2011年/イラン/123分/カラー/デジタル/1:1.85/ステレオ/ペルシア語

原題Jodaeiye Nader az Simin

英題Nader and Simin, A Separation

日本語字幕:柴田香代子 /字幕監修:ショーレ・ゴルパリアン

配給:マジックアワー、ドマ

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カテゴリー:新作映画評・エッセイ / 特集・シリーズ / 映画を語る

タグ:仕事・雇用 / 非婚・結婚・離婚 / くらし・生活 / 高齢社会 / ケア / 川口恵子 / イラン映画 / 女性表象 / 女女格差 / 女性と宗教 / 佐々木あや乃

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