2012.05.10 Thu
本年度アカデミー外国語映画賞受賞作イラン映画『別離』について、ペルシア文学をご専門とする東京外国語大学大学院総合国際学研究院 言語文化部門准教授、佐々木あや乃氏に、C-WANコーディネーター川口恵子がお話をうかがいました。
イスラームと進歩的女性
川口: 最後に、ずっと気になっている点をお聞きしたいと思います。この映画は、ナーデルの妻で近代的で高等教育を受けたスィーミーンが家を出ていったことから物語が動き出します。老父の介護が深刻な問題として浮上し、困ったナーデルが、家政婦ラーズィエを雇ったことから、流産→訴訟という風に物語が発展していくわけですから。スィーミーンは大学教育を受けた聡明な女性で、近代的な合理的価値観の下に行動する進歩的な女性という設定ですが、映画全体、あるいは監督の視点は、こうした女性に対してどこまで共感的なのでしょうか?
スィーミーンの心情を描いていないために、彼女の行動=老父や娘を置いて家を出て行ったことが、エゴイスト的、と思う観客も日本人にはいるのではないかと思うのです。彼女が娘を連れて国外移住するために離婚を希望したい、という物語設定の「背景」が描かれていないままに物語が動き出すので、彼女にとって不利ではないかと。
私自身、実をいうと、映画を見ている間はあまり彼女に共感できなかったのですが、あとから考えてみますと、イスラーム法と女性の問題、という、映画があえて触れていない点が「背景」にあったのでは?と思ったのでお聞きしたいと思います。
具体的にいうと、ヴェール着用義務や、公共の場での男女別離の強制などです。特に、映画の中では、ときどき、ヴェールをかぶりなさい、とラーズィエが娘に注意するなど、監督はその問題にさりげなく触れていたように思います。あからさまに批判することは避けながらも、スィーミーンが国を出たいという設定自体に、イスラーム法の強制が女性にとって生きにくい社会を作り出しているという前提があったとしたら、スィーミーンに対する見方も変わってくるように思えます。
つまり、私の疑問をWAN的に要約するなら、監督は、どこまでフェミニストといえるのでしょうか?パリ在住ということもあって、かなり進歩的で、女性に対して共感的な監督だな、と期待しているものですから(笑い)。監督のために、良いお答えを期待しています(笑い)。
生活規範としてのイスラーム
佐々木: 監督自身がフェミニストかどうかわかりませんので、正直お答えするのはなかなか難しいのですけれど、私が思うに、監督がこの作品に込めた思いというのは女性云々ということではなく、イスラームという生活規範そのものがイラン社会でいかなる役割をもっているかについて、端的にイランも含め世界中の人々に知らせたかった、ということではないでしょうか。「イスラーム」と聞いただけで、日本人は即「悪」ととらえる節があります(明治以来の欧米偏重主義で、戦後以来長くアメリカの影響下にある国ですので、いたしかたありません)が、本来イスラームとはもっと友好的な生活規範だったはずです。ユダヤ教やキリスト教よりも後に誕生しましたし、元来、より友愛的・平和主義的な信仰のはずなのです。そもそも「イスラーム」という語には「平安」という意味があるほどですから。一夫多妻制を導入したのも、部族間の戦闘などで夫や父親を失った婦女子を庇護するためであり、決して女性を軽んじたり虐げたりしようとする目的ではありませんでした。ただ、今のイランが、とりわけ1979年のイスラーム革命以降、イスラームという生活規範を「政治」と結びつけ、「宗教指導者による厳格な政治をおこなっている」ということが(おそらくは)問題なのです。女性のヘジャーブは、仮に、今すぐ「別に被らなくてもいい」というおふれが出たとしても、イラン国内では脱ぎ捨てる女性はさほど多くないと思います。自らの肌や髪を覆うことで、ちょうど私たち日本人女性でも(人によってですが)、どんなに暑くてもノースリーブは嫌、ショートパンツは穿かない、という人がいるのと同じ感覚です。ヘジャーブは「私は軽い女ではない、きちんとした家庭で育ちました」という証明のような役割を担います。要は、信仰や信条の問題は、各自の箸で大皿を突っつきながらの食事や回し飲みは苦手、という人の考え方と同じようなものなのです。また、貧しい女性であってもチャードルという布を一枚被れば、引け目を感じることなく人前に出ることもできますし、図書館で勉強に疲れたら、寝顔を気にせず、すっぽり被って昼寝をすることもできる、便利なツールにもなりえるのです。
また、女性は男性より体力的には劣りますので、女性には重たい荷物は持たせないとか、万が一のことが起こらないよう、なるべく女性1人で遠出させないなど、イラン社会は女性と子供にやさしい社会でもあります。問題なのは、例えば、昨日前髪をほんの少しだけ見せてスカーフを被り街中に出ても誰も何も言わなかったのに、今日同じスタイルで町に出たら、いきなり社会風紀を乱すからと警察に捕まって拘留されてしまった、といったことが現代イランで起きているという衝撃的な事実です。社会において何が善で何が悪なのか、基準がさだかでないのです。さらに、一生懸命勉強し、有名一流大学も卒業し、成績も優秀だったのにまともな職がないとか、医学部を出てもタクシー運転手とか、自分にはコンピューターを自由自在に操る能力があるのに、まるで機械のわからない偉ぶった上司がすべての権限を掌握している、といった雇用の不満をはじめとする閉塞感にイラン社会はさいなまれているのです。その閉塞感に対する怒りを爆発させた結果、政府からの弾圧によって罪のない若者たちの多くが政治犯として収容されたり、殺されたりしてしまったのは、比較的私たちの記憶にも新しいと思います。
イスラームと介護の問題
公共の場での男女別については、日本でも朝夕のラッシュ時の女性専用車両があったり、一部の学校も男女別だったりしますので、これらは特に大きな問題ではないと思います。ただ、この映画に出てきた介護の問題は、若者人口の多いイランであっても、それなりに深刻になってきているのでしょう。家政婦は老人のからだに触れられず、彼の手をとって引いてあげることすらできない、というのでは、イラン社会で有資格のヘルパーが養成され、活躍できるようになるのはいつのことやら、と心配になりますね。おそらく、既に医療現場で性差別問題は表面化してきていると思いますので、これは今のイランに課せられた大きな課題の1つでしょう。例えば女性患者には女性看護師しかつかないとか、産科医は女医がいいとか。ただ、日本でも、例えば自分が診てもらう産科医の先生は女医のほうが好ましいと思う女性は多々いるでしょうから、女性の心情的にはイランも日本も変わらないと思うのですが、イランの厳格な家庭の場合、下手をするとある医者がどれほど優秀でも男性医師であったばかりに女性患者が命を落とすという悲劇も起こりうるので、そこが人権問題にも繋がりかねない大きな社会問題に発展してしまうわけです。
こういった問題を含め、この映画は、イランに生きるイラン人にとって、自分たちの社会の枠組みがいかに特殊で人々が閉塞感を抱いているか、ということに改めて気づかされるきっかけを与えたといえます。まるで自分や親類、周囲の友人の身に起こっているかのように錯覚させるほどの俳優陣の自然な演技も光ります。イラン人のみならず、世界中の人間に訴えかける、自分がよかれと思うことを主張する際のエゴと相手への思いやりとのせめぎあいや嘘と良心の呵責について常に高い関心をもちそれを描き出す監督の手腕と、俳優陣の熱演が、世界で高く評価されたからこそのオスカー受賞だと私は思います。
イスラームとイラン社会の関係性を問題化する女性表象
川口: チャードルが貧富の格差を覆い隠す機能を果たしているというお話など、イラン社会の内部に精通していらっしゃる佐々木さんならではのご指摘、とても興味深く拝聴しました。西洋的な観点からのみ、チャードル着用を女性の不自由さの象徴として安易に語ることは、その国の文化的独自性を無視した議論に陥る危険性があるとあらためて思いました。ただ、やはり、それが義務として国家から強制されるということは、問題であると思います。その点に関しては、特別に問題化することはしないものの、わざと目立つ形でチャードル着用義務のあることを台詞でわからせている点が、ファルハーディー監督の巧みな点だと思います。今の佐々木さんのお話もふまえた上で、この映画を再度、イスラーム法と社会との関係に対する立ち位置という観点から見直すと、この映画は、対外的には、イスラームという生活規範のイラン社会における役割を伝え、イラン国内のイラン人に対しては、その特殊性と弊害について気づかせる役割を果たしている、と理解できるかと思います。その観点から、あらためて、二人の女性の描かれ方をとらえ直すことができそうです。スィーミーンは、それに真っ向から抗議する形で娘を連れて国を棄てて出て行こうとし、ラーズィエは、それにドップリつかることで悲劇へと突き進む。彼女がやむなくついたふたつの嘘(夫に隠れて介護を含む家政婦仕事を引き受けた点、流産の原因について)は、まさに、イスラームという生活規範の特殊性と弊害について観客に気づかせる役割を果たしています。夫をかばうために彼女がついた嘘が最終的に夫の名誉も傷つけるという悲劇は、スィーミーンをして、沈黙に陥らせます。私は、ラーズィエが、最後に「なぜこの家に来たのか?」とスィーミーンに向かってあげた悲鳴のような叫びを忘れることができません。近代的な価値観・合理主義とイスラームに根差した生活の衝突が、きしみをうみ、悲劇を生み出したとも考えられるように思います。イスラームとイラン社会の関係性を象徴すると同時に問題化する存在として、ラーズィエとスィーミーンという二人の対照的な女性表象が用いられている、といえます。できることなら、今度は、イスラームとイラン社会の関係性を、国を出たイラン女性の立場から問題化する作品を見てみたいです。
最後になりましたが、今回は、WAN「映画を語る」欄のために、専門家のお立場から多くの貴重なご意見をいただき、ご協力いただきまして、本当にありがとうございました。
一人でも多くの人がこの傑作を観に映画館に行くことを願ってやみません。DVDでは決してこの映画の息をのむようなサスペンスフルな演出と思いがけない展開の連続、現代的な演出の素晴らしさは味わえないと思います。
(佐々木あや乃・東京外国語大学大学院総合国際学研究院 言語文化部門准教授)
(川口恵子・映画評論家/WAN「映画を語る」欄コーディネーター)
往復書簡 第一回はこちら
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『別離』
4月7日(土)より、Bunkamuraル・シネマほか全国ロードショー
(C)2009 Asghar Farhadi
※第21回アジアフォーカス福岡国際映画祭上映時タイトル
「ナデルとシミン」“A Separation”を改題
製作・監督・脚本:アスガル・ファルハディ
出演:レイラ・ハタミ、ペイマン・モアディ、
シャハブ・ホセイニ、サレー・バヤト、サリナ・ファルハディ、
ババク・カリミ
撮影:マームード・カラリ
編集:ハイェデェ・サフィヤリ
2011年/イラン/123分/カラー/デジタル/1:1.85/ステレオ/ペルシア語
原題Jodaeiye Nader az Simin
英題Nader and Simin, A Separation
日本語字幕:柴田香代子 /字幕監修:ショーレ・ゴルパリアン
配給:マジックアワー、ドマ
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カテゴリー:新作映画評・エッセイ / 特集・シリーズ / 映画を語る
タグ:仕事・雇用 / 非婚・結婚・離婚 / 高齢社会 / 川口恵子 / イラン映画 / 女性表象 / 女女格差 / 女性運動,女性と宗教 / 佐々木あや乃