エッセイ

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大手術と父の死(フェミニストの明るい闘病記6) 海老原暁子

2012.09.10 Mon

 2010年9月20日。53才の誕生日、根治術を翌々日に控えた私に、妹が父から託されたプレゼントを渡してくれた。中身は父らしく現金である。嬉しいような哀しいような想いにとらわれた。家父長として一族の面倒を見ること、特に金銭面での支援をすることは、彼にとって常に最も大切な家族との関係のあり方だった。私たちは支配的な父を疎みながら、父からの援助をいつまでも受け続けた。父の「経済力による支配」を甘受することが親孝行のようなことになっていたのだ。父は昭和6年生まれの未年。大学で父と知り合い嫁に来た母は、父との結婚生活のあれやこれやを短歌に残している。

剛直に生ききし男老いゆくをつぶさに見たり家妻なれば
ひきずられ生くる安易さ瓜一つ切るも男の流儀に寄りて

  剛直に、思い通りに生きる男の傍らで、マクワウリの切り方さえ自分流を貫けない女がいる。母は剛直に〜の歌の意味を問うた大学生の私に、「ざまあみろってこと」と答えたのだった。

 その母は63で死に、父は17年を一人で暮らした。母の死んだ時と寸分違わぬ家で死にたいと、壊れたヒーターや軋む引き戸に囲まれて。そんなに母が慕わしいのならなぜ生きているうちにもっと大切にしなかったのだと私は父を責めたが、それも詮方ないことだった。父は父なりのやりかたで母を愛したのだろう。それを母がどう受け止めるかに思いをいたすことのできる想像力を、軍国少年のなれの果ては持ち得なかったということだ。名を挙げ身を立て出世街道を驀進した父の、静かな最後が近づいていた。

 手術室までは歩いていく。前回の手術と同じく、事前にいろいろな準備があったが、今回最も辛かったのは腎臓から膀胱までのステントの挿入である。腎臓にも軽い持病のある私は、抗がん剤の副作用で水腎症をおこしていたため、目視しにくい尿管を際立たせることで術中の誤切断を防ぐためだという。麻酔なしで行うため、気絶するほど痛かった。

 さて手術室。麻酔科の玄医師は私の血管の細さを心配していたが、手術台に横たわった私の左手首に一発で太い麻酔用の針を指してくれた。その痛いのなんの。しかし痛みはそこまで。あとは眠っているだけだから楽なものである。

 時間の感覚の完全に遮断された「無」の状態から、「はい終わりました」の声で魔法のように目が覚めた。背骨には麻酔の針が、下腹部には腹水のドレーンが、そして尿道からは導尿の管が伸び、口元には酸素吸入器がかぶせられ、血栓予防のための空気圧バッグが膝まですっぽりと履かせてある。満艦飾の大騒ぎ。

 翌日までひたすら眠った。翌日午後には立って歩けとの指示が出て、それ以降は多少の痛みさえ我慢すればいくらでも歩けるようになっていく。もちろんその間には麻酔の効きが悪くなって七転八倒する瞬間もあれば、導尿管の違和感に苦しむ瞬間もあるのだが、1日ごとにドレーンが抜けて身体が楽になっていき、5日目には流動食が始まった。

 その夜、父の夢を見た。講堂のようなところから明るい春の庭に出て行く人の群の中にスーツ姿の父がいて、私もその一行の中にいる。一転、古い日本家屋の井戸端に繋がれていた我が家の飼い犬が家出をしたらしく、深夜にも関わらず父が車で探しに出かけようとしている。私もあわててついていくという内容だった。動物好きの父だった。

 跡取り長女として一族から下へもおかずに育てられた私は、実家の跡を取らなかったことに関して、父に対するどうしようもない申し訳なさから自由になれない。家父長制の権化のような父に母とともに苦しめられ、いつのまにかフェミニストになっていた私であるが、刷り込まれた責任感と思い込みは今日まで私を縛っている。私が父にかけた最後の言葉は、「私も大統寺に入れてね」というものだった。実家の菩提寺の墓に葬られたいと私は本気で思っている。お盆のたびに人々の提灯がゆれて線香の煙のたちこめる、なつかしい祖父母や夭折した妹や母の眠るあの古刹以外に私の帰る場所はない。これはイデオロギーの問題とは別なのだ。父は満足そうににっこりと頷いた。

 10月5日。手術から2週間。外出許可をとって父を見舞う。次女と長男を同道したのだが、二人は病室に入るなり泣き出してしまった。1ヶ月前、私の作ったハンバーグを美味しそうに食べていた父のあまりの変わりように、私も言葉を失った。人が死期を迎えるというのは大変なことだ。父はもう長くないと確信した。その夜、また父の夢を見る。いつも身につけていた茶色のカシミヤのカーディガンを着て、お客を連れて家に帰ってきた。何だお父さん元気そうじゃない、と思ったところで目が覚めた。

 10月9日。再び父を見舞う。父は自宅に帰っていた。母の命日を自宅で過ごしたかったらしい。病院に戻る父を、私の車で送った。気持ちのよい秋風がふいて、父は白い髪をなでつける仕草をした。父がこよなく愛したふるさとの景色の、これが彼の見納めになった。

 12日、術後抗がん剤が始まる。白血球は2100しかないので、ここに点滴をすれば、このあとはしばらく再起不能状態が続くことになるはずである。父が気になって仕方がなかった。17日。心は穏やかでなくても時間はゆっくりと流れる。父を送る言葉を書いた。18日、叔母から電話。父がしきりに19日を気にしているという。私が父に「19日の抗がん剤が終わったら来るからね」と言ったからだと。私は泣くほかなかった。深夜、妹から電話。父昇天。満79才3ヶ月。

アルバムの中の父

 終戦を旧制中学2年で迎えた父は、戦後を猛烈な向上心と出世欲を燃料に突っ走った。豊かで幸せな人生だったと思う。それでも父の最大の心配事、家の継承に関して彼を絶望させたまま死なせたことが、仕方のないことだと知ってはいても私は悲しかった。

 大手術のちょうど1ヶ月後、しかも抗がん剤治療を受けた直後の私にとって、喪主として数千人の出席者のあった葬儀を取り仕切ることは、まさに生きるか死ぬかの大事業であった。立っているのもやっとだったが、心を込めて喪主挨拶を読み上げた。「父は立体的で複雑で、時々困り者で、しかし何とも愛すべき人間でした。ここにいらっしゃる皆様が、これから記憶になっていく父と時折会話をして下さることを祈りつつ、喪主の挨拶といたします」と結んだ。私の人生のほとんどを形作ったのは、良きにつけ悪しきにつけこの父だった。お父さん、さようなら。

豆知識:代替療法その2 食餌療法

 ゲルソン療法という言葉は、癌患者なら知らない人はいないと思います。マックス・ゲルソンという医師があみ出した癌の治療法で、徹底した菜食を特徴とします。動物性たんぱくを一切取らないところはマクロビオティックに近いのですが、塩分の摂取を禁忌とするため、いきおい食事は極めて単調な味にならざるを得ず、個人が自宅で実践することが極めて難しい療法です。

 このゲルソン療法を、日本人が実践しやすいようにアレンジした食餌療法の代表格に済陽高穂(わたようたかほ)医師の菜食療法、星野式ゲルソン療法と呼ばれる星野仁彦医師の食餌療法などがあります。私も沢山の実践報告やDVDなどを見て、迷いながら自分なりの食事のあり方を模索しましたが、この模索はいまだに続いています。

 決意を要したのは、今まで長いこと好きで食べてきた食べ物を断ち切ることです。私の場合は乳製品とお菓子でした。婦人科系の癌の発症に乳製品が関わっていることがあちこちで報告されていますが、日本の病院では食事指導をするところはあまりないようです。ドクターに「どんな食事をすればいいですか」と問うても、答えは決まって「何でも好きなものを食べてください」ですし。

 私は子どものころからチーズ、バター、ヨーグルトが大好きでいやというほど食べました。また、物心ついて以来、ケーキと和菓子、どちらかを食さない日はなかったといっていいぐらいの甘党でした(いや、両刀使いでした(汗))。どれだけ甘い物を食べても太らない体質だったため、よけいに食べ放題だったのです。よく母に言われたものです。あんたみたいなお菓子の食べ方をしていて身体に異変がおこらないはずがない、と。親の言うことは聞いておくもんです・・・

 現在は、できるだけ新鮮な旬の野菜を多く食べることを中心に据え、肉類は控えめ、根菜や木の実、きのこと豆を多く取入れた食事を実践しています。味付けは薄味を心がけてはいますが、家族もいますし、全て自分中心にというわけにはいきません。お菓子は以前に比べればごく少量ですが、それでも食べています。お酒も時々飲んでいます。

 さて、模索の過程でうんざりさせられたのは、男性医師の性別役割分業意識の強さでした。済陽医師と星野医師の講演会のDVDを見たのですが、「女房に野菜を山ほど買って「こさせ」、週に1度は野菜しか食べない日を設けています」だの、「食事の指導をしていたら、そんな難しいことできませんと言った奥さんがいた。旦那さんの命にかかわることだというのに、けしからん女房だ」などという言葉がぽんぽん出てきます。星野医師は自身が2度の癌を食事で克服した経験があるとのことでしたが、「妻は食事のたびに3時間も台所に立ってくれた、何年もです」などと平気で言う。女房が癌になったら、誰が食事をつくってくれるのでしょう。独居の男女とて同じことです。

自然療法

 また、自然療法で有名な東城百合子氏の著書は非常に有用な情報を沢山含んでいるのですが、「自然に感謝し、化学合成された食品を摂らず、自分の身体は自分で守り、治していく」という納得させられる主張が、「だからお天道様を拝み、天皇陛下をあがめ、日本古来の美風を踏襲し、お母さんは台所に」と発展していくのが残念でなりません。彼女の主催する結社の月刊誌には、毎号必ず「新しい日本の歴史」と「道徳教科書」のカラー写真とともに教育再生機構の連絡先が掲載されているのです。短絡と付会にまみれた歴史観を持ち出すことが、健康増進にどう役立つのでしょうか。

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カテゴリー:フェミニストの明るい闘病記

タグ:身体・健康 / 海老原暁子 / 闘病記 /

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