2009.07.06 Mon
1989年、ドイツ、ベルリンの壁崩壊後、世界は一挙にグローバル化の波に呑み込まれた。又、2001年9月11日ニューヨーク同時多発テロ事件後、今も新たなる対立を生み出している。
この様な世界情勢の中、私は1992年より現在まで、現代美術作家として常に社会性を持った作品の制作を目指し、現実社会の中での人間存在の意味を問うて来た。1998年、大阪トリエンナーレ・彫刻部門で特別賞を受賞(ドイツ留学)、1999年以来、日本とドイツにアトリエを持ち、往来しながら作品制作をしている。その間、日本、アジア、ヨーロッパ、北米で作品展を開催、又、色々な大学でレクチャーをしながら今日に至っている。
以下、どの様な国に滞在し、アーティストとして何を感じ、それが作品としてどの様に結実したのかをお伝えしたいと思います。
(文:井上 廣子)1
1995年、阪神淡路大震災が勃発しました。一瞬にして約5000人以上の尊い命が失われ、この被害を目のあたりにしました。
見なれた光景が瓦礫の山と化しているのを見て茫然自失となった日を忘れる事が出来ません。町は復興しても人々が受けた衝撃は心中でトラウマとなり、特に子供達の心に及ぼした影響は多大であった。震災後、人々の心の奥深く刻まれた傷が癒されない事や、仮設住宅での孤独死、そして、それを管理する社会の仕組みに関心が行きました。この事実が、以降、世界各地の精神病院や少年院、ドイツの強制収容所等、隔離された施設の窓の内側と外側の写真を撮るという行為に向かわせ、又、世界の子供達をモチーフにした作品制作をしています。
病室に入り、ここで生活をしている人と会話をし、後、静かにその場所に佇みます。人の気配を写真に撮りたいと思うのです。窓の内側には人々の喜び、悲しみ、愛や希望、生や死への想いと眼差しがあります。しかし、現実には窓一枚を通して、内側から外側を、外側から内側を見る人々の視線にはズレがあると思います。その差異と共感を表出し、窓一枚の境界を通して、<私は何なのか>、<どこに居るのか>、他者とどの様に繋がっていくことが出来るのか、<他者と自分の関係>を探り、窓のイメージを用いながら境界を超越したいと思っているのです。
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《不在の表象》1997年、アートフォーラム(谷中・東京)日本の精神病院の窓。布に写真を現像し、それをキャンバスに張り、ライトボックスに組み込んでいる(45cm/D ×45cm/W ×45cm/H))
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《Absence》一部、1999年、アトリエ・アム・エック(デュッセルドルフ・ドイツ)
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《Absence》1999年、アトリエ・アム・エック(デュッセルドルフ・ドイツ)
2
1999年、ドイツにアトリエを持ち、強制収容所を撮り始めました。
2000年、盛夏、チェコの近郊にあるテレジン、シュタット強制収容所に居ました。この窓は、女性棟の中の窓です。この窓にカメラを向けた日は猛暑で、窓の外側には青空に白い雲が浮かんでいました。カメラをかまえる私はいつでもこの部屋から退室する事は出来るのですが、かつてここで暮らしていた人々はそれぞれの場所に帰ることはなかったのです。どの様な思いでこの窓を見上げていたのでしょうか。カメラを向ける私の後ろには、累々と過去の人々が存在し、そして現在の私につながっている、生かされているのだと強く感じた。そして、忘れることの出来ない窓となりました。
全ての撮影を終え、出口に立った時、一人の年老いた女性が、孫らしき子供たちを抱きしめ、泣いていたのでした。この悲惨は歴史は、決して過去の事ではなくて現実なのだと、又、歴史の記憶という意味を考えていました。
(2009年7月記)
3
1998年の夏、海に面した広大な空間を使った野外彫刻展が神戸市六甲アイランドであり、その為の作品出品の依頼を受けました。
ここで出品した《魂の記憶》というタイトルの作品は、後の2000年1月から約2ヶ月間、兵庫県立近代美術館<震災と美術 1.17から生まれたもの>展に再度出品する事にもなりました。
1998年当時、六甲アイランドの周辺には、1995年の阪神淡路大震災で被災した人達が入居していた仮設住宅が建ち並び、人々の生活が営まれていました。
彫刻展が開催される界隈の場の成り立ちを調べ、仮設住宅の人々と出会い話し合う内に、この場所で震災を抜きにした作品設置は考えられず、むしろ震災をテーマに、人々の心の問題や震災で社会情況がどの様に変化したのかを作品を通して表現する事にしました。
1998年7月25日現在、220名の孤独死がありました。
震災がなかったなら、生きていたかもしれない人々。仕事もあり、家庭があったかもしれない人々が、震災で全てを失い、アルコールに溺れたり、外界との接触もなく、一人で死んで行った。その人々の痕跡を留め、貴方を忘れないというメッセージを作品に込めました。この場を生者と死者の交感の場とし、生かされた者の生存の意味を考えたいと思ったのでした。
日々の営みの中、人が生を受けて死んで行く象徴としてベッドを使用し、人の意識の重量を表現する為に、ベッドの枕の位置に石塊を置きました。ベッド上の黒色の流れはコールタールを使ってドローイングを施しました。
人の死を記憶する事は、又、生を想う事でもあると思います。
(2009年8月記)
740cm/w×300cm/h×380cm/d
この作品の鉄鋼加工体は、実際の仮設住宅一戸分のサイズです。
《魂の記憶 98・7.25?220》の作品展
・1998年 現代アート野外展
(六甲アイランド:神戸)
・2000年 震災と美術ー1.17から生まれたもの
(兵庫県立近代美術館:神戸)
4
2002年晩夏、私は、アメリカ・アンカレッジ空港からさらに飛行機を乗りついで北西に約2時間30分、ベーリング海に面したアラスカ北西端の町、ノーム市にいました。
この町は人口約4000人、その半数がイヌイットの人々で、ここに約1ヶ月間滞在し、辺境に生きるイヌイットの人々と生活を共にするためでした。
いつも、ベーリング海から乾いた風が吹いて来ました。海を隔てたユーラシア大陸からやって来る風はまるでオーケストラの通奏低音の様な低い音を立てながら、荒涼とした山や谷やツンドラの大地の間を、生命あるものの側を縫う様に終日渡っていくのでした。
ノームに着いて早々、ベーリング海に面した砂浜で、早朝や夜半、イヌイットの若者達が車座になり、飲酒をしている光景を度々見かけました。暗くて長い苛酷な冬があり、さしたる仕事もなく、未来への夢もなく、人々はアルコールに手を出す。ノーム市の犯罪のトップは、ドメスティック・バイオレンスで、事件も多発し、深刻な社会問題になっていました。
1989年、ドイツ、ベルリンの壁崩壊後、世界は一気にグローバル化の迪を走り出した。グローバル化は社会構造の変革を促すと共に、同時に私達の抱えている政治的、社会的問題も全世界に波及して行ったのです。このアラスカの小さな町で起こっている社会的問題は合わせ鏡の様に、東京でも、パリでも、北京でも起こりうる事なのです。又、世界の急激な変化の中で社会が抱える諸問題が、老人や子供、社会的弱者と言われる人々に集約され、又、ネット社会の中で人間社会が不安で不快な深い闇を抱え始めたのではないかと思うのです。
ノームで小さな子供たちや若者に出会った後、アーティストとして作品制作上、彼等をモチーフとして選びたいと思いました。時間は待ってくれないのです。この時期、作家としてこの問題に正面から向き合い、形として表現したいと。
彼等に絶望ではなくて未来への希望の種子を手渡したいのです。
(生きていていいのだよ)と。
世界各国でであった、目を閉じた子供のポートレートを表出する事により、(この混沌の様相の中で、今、人間は何を欲し、何に向かって歩み続けようとしているのでしょうか。そして貴方は何を)という問いかけでもあるのです。
(2009年10月記)
《汝、何を欲するか》(東京ドイツ文化センター:東京)2003年
600cm/w×125cm/h×3cm/d×6枚
布に写真を現像、ライト、ビデオモニターとビデオ作品
《汝、何を欲するか》(中京大学C・スクエア:名古屋)2003年
世界各国で出会った子供たち12名の各ポートレイトを布に現像
56cm/w×124cm/h×1cm/d
ライト、プラスター、鉄、木、ロープ
ビデオプロジェクターとビデオ作品
180cm/w×200cm/hの写真(紙焼き)
<WHAT WILT THOU>(ムルハイム市立美術館:ドイツ)2003年
写真(ポートレイト)を布に現像
60cm/w×125cm/h×1cm/d×18枚
スチール(230cm/d)
井上廣子(現代美術家)「<Inside-Out> いのちと向き合う」は、まだまだ続きます。お楽しみに!
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