2013.02.05 Tue
朝鮮には、植民地時代の頃まで日本の部落差別とよく似た白丁(ペクチョン)に対する公然たる差別があった。白丁とは、朝鮮時代に屠殺業、柳器製造、肉類販売などで生活を営んだ人々である。朝鮮王朝時代の白丁は、最も低い身分である“賤民”に属した。この“賤民”層には奴婢をはじめ、妓生(キーセン)や巫堂(ムーダン)なども含まれる。だが、白丁は“奴婢にも及ばない者”と言われる存在だった。朝鮮の近代改革と言われた甲午改革(1894年)で身分制は廃止されたが、白丁に対する根強い差別意識や慣習はその後も続いた。
白丁には戸籍がないので兵役や納税の義務もなかった。しかし支配層の管理の対象として住む場所は制限され、移動の自由がなかった。一部の地域では、チョゴリ(上衣)の襟に白丁であることを示す黒い布きれを付けさせもした。通りを歩く時は、腰をかがめて早足で歩く“白丁歩き”を強いられた。身なりも制限された。絹の服を着ることは許されず、成人男性なら誰もが被る“カッ”(帽子)の代わりに、粗末な笠を被ることしか許されなかった。女性の場合は、結い上げた髪にかんざしを挿してはならないとされていた。さらに、婚礼の時には輿にも乗れず、死んでも遺体をサンヨ(喪輿:棺を墓まで運ぶための輿)に乗せることすら許されなかった。
“白丁”差別を描いたドラマ
「白丁の娘」(全2話、SBS2000)は、こうした白丁に対する差別を正面から扱ったドラマである。脚本はパク・チョンラン(朴貞蘭1941~)、演出イ・ヒョンジク。パク・チョンランは、以前この欄でも紹介した「黄色いハンカチ」(2003)を書いた女性作家である。主人公の白丁の娘、オンニョンを演じたのはチュ・サンミ(秋相美1973~)、医者の息子でオンニョンと身分違いの恋をするユノ役をユ・ジュンサン(柳俊相1969~)が演じた。ちなみにチュ・サンミは、父親と兄が演劇俳優である。制作チームは、新聞に載った白丁に関する記事からヒントを得たという。
時代は19世紀末から20世紀初頭を背景にしている。主人公オンニョンの家族は、白丁だからと周囲の人々から差別を受けながら暮らしてきた。オンニョンは子どもの頃、そんな身の上が悲しく、幼い弟に屠殺を教える父が憎くてたまらなかった。だが、そんなオンニョンに転機が訪れる。ある日、コレラに罹って重体だった母親を、通りがかりの西洋人の宣教師が見つけて病院に入院させてくれた。それがきっかけで宣教師との縁ができ、幼いオンニョンは病院と同じ敷地内にある梨花(イファ)学堂に入ることになったのである。
梨花学堂(現在の梨花女子大学の前身:写真)は1886年に米国の北監理教宣教会の宣教師メリー・スクラントン(Mary Fletcher Scranton, 1832~1909)が建てた朝鮮で初めての女子教育機関である。オンニョンが入学する頃(1900年前後)は、女児を学校に通わせることはもちろん、女子教育向けの学校自体が稀有な存在だった。梨花学堂に通う児童数も、1900年頃までは全校生合わせても50名程度に過ぎなかった。
オンニョンは、学校をのぞくやすっかりそこが気に入り、自らも入学を希望する。今なら学費や生活費が心配になるが、学校側はオンニョンの母親に、“費用は一切心配ないから、子どもを預けなさい”と提案した。ちなみに『梨花八十年史』(p.89)によれば、1899年に初めて「衣類費と食費を自己負担してまで入学する子どもが現れた」。それまでは「食費、衣服、本、その他雑費まで学校が負担」したそうである。
こうしてオンニョンは梨花学堂で学び始めるが、その後もオンニョンの一家は辛い事件に見舞われる。コレラが治った母親は、ある日、町の学校の運動会で“白丁の女に跨って走る”競技に狩り出され、見世物になる。辱めを受けた母親は、それを苦にして自殺する。また、オンニョンの家の近所に住むユノは、親とは違って白丁に同情的で開明的な考えの持ち主だった。やがて二人は相思相愛となり、将来を約束する仲になる。ところが、それを知ったユノの父親が怒り狂って、オンニョンの父親を半殺しの目に遭わせてしまうのである。ドラマは、そんな経験を通して成長するオンニョンの姿を描く。
ドラマのハイライトは、オンニョンが梨花学堂の卒業式で総代として答辞を述べるシーンである。彼女はここで初めて「私は白丁の娘です」と出自を堂々と明かす。そして幼い頃は父親のことを恥ずかしく思い、憎悪し、恨んできたけれども、それが誤った考えであったと認め、周囲からの蔑視と差別の中で苦労をしながらも、自分を愛し大切に育ててくれた父親への感謝の気持ちを表すのである。答辞の最後は、「今日の光栄を父に捧げます」と言って締めくくられる。父親は娘の答辞を聞いて感激し、そんな父親にオンニョンが角帽を被せて喜び合う場面でドラマは終わる。
ドラマ「白丁の娘」は、正月休みの特集として放映された短編だったが、社会的に大きな注目を浴びたようである。その証拠に、女性部が主催する男女平等放送賞の最優秀賞を受賞したほか、アジア太平洋放送連盟が主催するPrize 2000でTVエンターテインメント部門の大賞、さらに、第34回ヒューストンフェスティバルのTVスペシャルドラマ部門最優秀作品賞を受賞した。日本でもぜひ放映してほしいドラマである。
実在した朴氏一家の物語
このドラマは、実在した朴氏一家をモデルにしている。ここで言う朴氏とは、実はドラマ「済衆院」(SBS,2010)の主人公ファン・ジョンのモデルとなったパク・ソヤン(朴瑞陽1885-1940:写真:注1)一家のことである。「済衆院」には登場しないが、パク・ソヤンには妹のパク・ヤンム(朴陽斌、生没年不詳)がいた。この女性がオンニョンのモデルとなった女性である。つまり、「白丁の娘」は朴家の娘を、「済衆院」はその息子を扱ったドラマなのだ。
この二人の父親であるパク・ソンチュン(朴成春)は、1862年にソウルで生まれた(没年不詳)。朴成春という名前は、後に彼がクリスチャンになってから得たものである。白丁の父をもつソンチュンは、やはり白丁の娘と結婚して3人の子どもを産んだ。彼は、長男だけはしっかり育てようと思っていたらしい。近所の教会の小学校では誰にでも文字を教えてくれるということを知って、息子を通わせた。また、自らも息子を通して文字を学び、キリスト教の教えに接するようになる。
1893年、ソンチュンはチフスに罹り生死の境をさまよった。息子がそんな父親を助けたくて、教会のムア牧師(Samuel F. Moore, 1860∼1906)に相談したところ、牧師は済衆院の院長であるエビソン博士(Oliver R. Avison,1860~1956:写真)を連れてきて治療してくれた。エビソン博士は当時、高宗の侍医でもあった。ソンチュンは、王様の侍医たる博士が、自分のような白丁の家を往診してくれたことに驚き、感激する。こうしてソンチュンはムア牧師のいる教会に通いクリスチャンになった。ちなみにエビソン博士は英国で生まれた。子どもの頃カナダに移住し、トロントの大学で医学を学んだ(卒業は1887年)。1893年に朝鮮に渡り、済衆院の4代目院長となった。そこで初めて朝鮮の人々に医学を教え、1904年にはセブランス病院を設立している。
ソンチュンはエビソン博士に頼んで息子のソヤンを済衆院で働かせた。ソヤンは病院の下働きを経て、医学校に入学することを許され、第1回の卒業生になった(1908年)。ソヤンの弟も医者になったそうである。そして、このドラマに描かれているように、娘のヤンムを梨花学堂に入れ、新教育を受けさせたのである。ここで気になるのは、ヤンムが本当に卒業式で答辞を述べたのか?ということだ。これもイ・ギュテ(李奎泰)のエッセイによれば事実に近い。出所を調べる必要はあるけれども、イ・ギュテは、エビソン博士はヤンムの卒業式に招待されて参席し、ヤンムの答辞を聞いて感激の涙を流したと書いている(イ・ギュテの歴史エッセイ「“白丁女人辱める”試合も」1999.10.7)。
パク・ヤンムのその後
パク・ヤンムは卒業後、貞信(チョンシン)女学校で教べんをとった(貞信女学校は、済衆院の要請で1886年7月に朝鮮にやってきた米国北長老会の医療宣教師エレス[Annie J. Ellers,1860-1938]が、孤児の女の子を預かったことから始まった女学校である。現在の貞信女子高等学校の前身)。また、1910年代には北京に行き、協和女子専門学校の保育科で学んだとの情報もある。女性運動家として有名なユ・ガッキョン(兪珏卿1892~1966)やユ・ヨンジュン(劉英俊1890~?:後に北朝鮮に渡って政治家になった)とそこで共に学んだらしい。
後にヤンムは、兄ソヤンの後輩にあたるシン・ピルホ(申弼浩1892~1952)と結婚した。シン・ピルホはセブランス医学校の第4回卒業生(1914年)であり、朝鮮人で初めて西洋医学にもとづく産婦人科の医者になった人物である。彼は独立運動家として有名なシン・チェホ(申采浩1880~1936)の近い親戚にあたる。
また、1922年12月には、ソウル仁寺洞(インサドン)にあるスンドン教会(勝洞教会:写真は1904年当時)で、ユ・ガッキョン、キム・ファルラン(金活蘭,1899~1970:後の梨花女子大学校総長)ら女性有志30余名とともに、京城女子基督教青年会(現、韓国YWCA)を創設した。パク・ヤンムは長い間、この団体で会計を担当したらしい。解放後にはYWCAの再建(1946年6月)にも携わっている(注2)。ちなみにスンドン教会は、ムア牧師が1893年にコンダングルという名称で始めた教会で、ヤンム一家と縁の深い場所でもある。パク・ソンチュンが教会に通い始めた頃、信徒たちの間で白丁をめぐる葛藤があり、それが元で分裂した。後に再び結合してスンドン教会となり、ソンチュンは1911年、この教会の長老になった。
女性専用の医療機関―保救女館
最後に、ドラマの中でオンニョンの母親が入院した病院である保救女館(ポグヨグァン)について紹介しておこう。1885年に米国北長老会の宣教師であり医師であるアレン(Horace N. Allen,1858-1932)が王室や政府高官の医療機関として広恵院(済衆院と改称)を設立した2か月後、同じく米国北監理会の医療宣教師、ウィリアム・スクラントン(William Benton Scranton,1856~1922 / 梨花学堂を始めたメリー・スクラントンの息子)は、ソウルの貞洞に貧しい人たちのための病院(施病院)を設立した。ところが、儒教的男女有別の慣習が根強く残っていた当時、女性患者は男性の医者に診察されるのを嫌がった。そこでスクラントンは女性用病院の必要性を感じ、米国監理教女性海外宣教部に支援を求めた。その要請を受けて1887年10月、女医のメタ・ハワード(Meta Haward,1862~1930)が朝鮮に派遣されてきたのである。ハワードは梨花学堂の構内で患者の治療にあたった。保救女館という名称は、後に明成皇后(閔妃,1851~1895)が下賜したものである。この病院はその後、女性の癌専門病院や梨花女子大学付属病院、癌研究所などを擁する梨花医療院として発展し、今日に至っている。
注1:朝鮮最初の外科医パク・ソヤンは、2008年に独立運動の功労が認められて建国褒賞を授与された。
注2:パク・ヤンムの活動については、以下のウェブサイトを参照。http://www.womenshistory.re.kr:7070/xml/D8/01/198910/D8-01-198910-001.xml
写真出典:
http://jindogun.com.ne.kr/backjong.htm
http://www.cnews.or.kr/paper/news/print.php?papercode=news&newsno=2232
http://blog.naver.com/PostView.nhn?blogId=severancepr&logNo=80105685177
カテゴリー:女たちの韓流