エッセイ

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再発への道のり(フェミニストの明るい闘病記・11)  海老原暁子 

2013.02.10 Sun

 復職にあたって胸の悪くなる策謀に振り回されはしたが、学生たちとのやりとりが私を癒してくれた。復職直後のFacebookに、私は「復職しました!疲れるけど学生かわいい!」と書き込んでいる。

 勤務校は短大だが、一年の専攻課程を有するため、私が一年次に指導した学生の一部は専攻科生としてまだ在籍していた。彼女たちからの熱烈なウェルカムバックのメッセージにどれほど力づけられたことか。また、初めて会う一年生のキラキラする瞳に、教員であることの幸福を改めて感じもした。学科長室から小さな研究室に引っ越しを済ませ、着任した時と同じ謙虚な気持ちで教育にあたろうと自分に言い聞かせた。

 とはいえ、私は学科長経験者のベテラン教員である。病み上がりと言えども、学内のすっだもんだから距離をおけないことは自明であった。首切り宣言に抗う若手の教員たちから組合結成ののろしが上がり(なんと労組のない職場なのである)、私はやがてそのフィクサーと目されるに至る。それに加えて、学長主導の新学科構想のごり押しに対する反対戦線の動きもある。それらすべてを俗事と退けて我関せずを貫けたならば、私の再発はもう少々遅れていたのではなかろうかと思ったりもしたが、言うても詮方なきことではある。連日の会議による疲労、一枚岩になれない勤務員の当事者意識の低さへの失望、無理が通れば道理が引っ込む状況に、心身ともに疲弊した半年であった。因果なもんだが、これが職業人生というものであろう。

 さて。復職後まずびっくりしたのは、教授会で着席する椅子が指定されていたことだった。専任教員が25名ほどしかいない小規模校である。ロの字型の机を囲む会議室では、学長を正面に好きな場所に各自が着席するスタイルが長くとられていたが、新学長はすべての教員を指定の場所に座らせるというトップダウンの方式を好んだ。一事が万事である。浦島太郎は戸惑った。

 この半年間のジェットコースター状態を詳述するのは連載の趣旨から逸れるので割愛するが、私がその間学んだことは、民主主義とは何と脆いシステムであるのか、ということに尽きる。ヒトラーがなぜ政権を取れたのか、文化大革命がなぜ起こったのかは、思想史上の謎などではなかったのだ。いろはがるたが世の倣いを掬い上げていることにも感心した。繰り返すが「無理が通れば道理が引っ込む」のである。

 1月に腫瘍マーカーが上がり始め、2月頭の検診で再発を告げられた頃、私はもう自分の職場に愛着を感じることができなくなっていた。なんという皮肉な幸運。後ろ髪を引かれることなく職場を去れるのだ。

 最後の教授会で私は、「理事会の決めたことに逆らうのなら、それなりの覚悟をして反対すればいい」と吐き捨てた男性教員に噛み付いた。「学問をする人間の風上にもおけない由々しき発言だ」と。あとで、陪席の事務職員が「海老原先生、何をあんなに怒ってたのかな?」と口にしたと聞いて脱力した。権威に屈せよ、自治権を放棄せよ、トップの虚言を糾弾するな、それがいやなら酷い目にあうがよい、との趣旨の発言がまかり通る教授会なんか、もう知ーらないっと。

最終講義

 そんなこんなで、私は長く慣例となっていた退職者へのさよなら会も催してもらえず、まさしくフェイドアウトのように職場から消えたのであった。

現役時代より集中して聴いてる?

 とはいえ、教員と学生の有志が発起人になって、私の最終講義が行われることになった。学校主催ではないためHPに載せることはもとより、在学生への周知すらできなかった。それでも桃の節句に催された最終講義には、北海道から沖縄から、東北から北陸から、四国から九州から、卒業生と友人が口コミで200人も集まってくれた。これ以上のはなむけがあろうか。

頂戴したお花を飾って

今回は豆知識+musingsね: 病気、葬式、宗教

 2月初旬に次年度のためのネイティヴ非常勤講師の採用人事および入試業務を終えた私は、再発後初回の抗癌剤治療を受けるために短い入院をすることになりました。薬剤は初発のファーストライン、タキソール/カルボプラチンではありません。ファーストラインで抑えきれていない「顔つき」の癌細胞(癌という疾病は一色ではなく、さまざまなタイプの癌細胞が混在しているのだとか)を叩くために、違う種類の薬を用いるわけです。使える薬がなくなった時点で患者は敵の軍門に下ることになる・・・。私は主治医と相談の上、前年に認可されたばかりのジェムザールという抗癌剤を使うことにしました。

 癌患者が最もショックを受けて精神的に不安定になるのは、初発よりも再発の宣告によってだと言われています。根治術を受けて、願わくばこのまま癌との縁を切りたいと誰もが思うはずですが、その切実な願いが叶わず、死の宣告にも等しい再発を告げられるそのキツさ。

 卵巣がん患者のブログがいくつもネット上に存在しますが、その中にはすでに故人となった方のサイトを、遺族が同病の患者の参考にと残しておいたものも多いのです。彼女たちの心の軌跡を読み込むのは、本当に辛い作業でした。初発のステージが私と同じⅢCの患者は大体4、5回目の再発で力つきて亡くなっていくようだ、再発までの時間はどんどん短くなっていくらしい、癌に身体を乗っ取られて死ぬか、それとも抗癌剤で死ぬか、いずれにせよ近い将来に死が待っているのだ、そういうことをドキュメンタリーを追うように突きつけられるのです。

 しかし、辛くて眠れない読後の煩悶の内にも、私の中の分析癖が頭をもたげてきます。どうもこの患者は医者にいい顔をし過ぎているようだな。あとになってこんな後悔をブログに書き付けるヒマがあったら、主治医と全面対決するぐらいの勇気を持って欲しかった。こっちの患者は医者とのやりとりが下手すぎる、こんな疑心暗鬼でグズグズめそめそ、しかも攻撃的な態度では医者もうんざりするだろう、もっと医者をうまく使わないと、、などと腑分けしてしまうのです。それが私自身の闘病に役立つのかどうかはわかりません。が、少なくとも読んで泣いてへばって寝る、というような循環に私は陥らずに済みました。

 誰も死ぬのだ、必ず。そのころ新聞でみかけた「殺し合いせずともいずれ死ぬものを」という川柳は、ドッキンと胸に響きました。命を見つめる日々だからこそ、命を軽んずる戦争や、核エネルギーに依存する政策の愚かしさが身に沁みて呪われます。私の余命は長くないだろう。それなら私がやらなければならないことをしよう、そう思わされたのです。

 ジェンダー論を掘り下げる過程で、私は宗教と言語が二つながら女性を縛って来た歴史について多くの本を読んできました。宗教と言語は、それらが男性にとって大切であるのと同じように、女性にとっても大切な生きる手段であり、よすがであるにも関わらず、いずれに関しても女性は主体的な関わりを演じること能わず、周縁化されながら依存/帰依するという、「シャチョー」に都合のよい関わり方を強いられてきたように思います。

 私は純粋日本型神仏習合葬式仏教を奉じる家庭で育ちましたが、戦後のインテリ層に多かった西洋式教育至上主義に基づいて、日本基督教団が運営する幼稚園に入れられたところから、キリスト教との縁が始まりました。しかし、就職先までミッションスクールだったにも関わらず、私はキリスト教はもとより、一切の宗教に深く肩入れすることを潔しとしない人間に育ちました。あえて言うならば、前回お話ししたような自然崇拝の原始的アニミズムに最良の宗教心を感じてきたということです。

 日本人には宗教心がないと一頃よく言われましたが、おそらく宗教心(と言語化される心持ち)を持たない人間などいないのであって、日本人の多くは私たちを育んだ温帯の自然や気候風土に神々しさを見いだして、崇敬の気持ちを抱いてきたのだと思われます。分析対象として捉えるならば、いわゆる普遍宗教には尽きせぬ興味を感じますが、よるべなき一茎の葦である自分を委ねるには、理屈が過ぎてかなわないなとも感じます。

 2012年2月、私の大切な友人が大腸がんで亡くなったとの知らせが届きました。50才。癌になったのは私よりあとだったのに、手術と辛い抗癌剤治療の甲斐なく、あっという間に旅立ってしまいました。

 その彼女からの最後のメールに「私はもう自分で自分を支えることができなくなって、洗礼を受けてしまいました」とあるのを見て、私は悲しみの中にも複雑な思いを禁じ得なかったのです。「受けてしまった」との表現に、藁をもつかむ状態の病人が、死にゆく我が身の魂の救済を求めてもがき苦しみ、複数の選択肢の中から繰り返し勧誘された一つを安直に選んでしまった、との自嘲がかすかに感じられたからです。もちろんご縁ということはありましょう。だが、私だったら、プルーンやタッパーウェアみたいに知人から伝えられた宗教にまるごと自分を投げ与える選択は絶対にしないだろうと、なぜか強く思ったのでした。姜尚中がキリスト者になった理由を「素晴らしい牧師さんに出会って」と語っていることにも、おおいに違和感を感じています。

 癌の宣告を受ける直前、体中に痛みをかかえて自殺念慮に囚われたりしていた時期に、担任していた学生が亡くなりました。あまりにも突然な、残念極まりない二十歳の死でした。

 凍えるように寒い斎場での立ちっぱなしの告別式に参列した私は、考え込んでしまいました。「無宗教」の葬儀はまさに混沌の一言だったのです。地団駄を踏んで嘆き悲しむ母親、穴があったらこっちが潜りたいラノベ調台詞の絶叫弔辞、どうしていいかわからぬ参列者の動線のないランダムな動き。スクランブル交差点の真ん中に可哀想な死者が横たわっているような有様は、素直でいじらしかった教え子の死を悼む気持ちに絶え間ないノイズを送ってきました。

 帰路、同行したアメリカ人の教員に「あなたは自分のお葬式をどんな風にしたい?」と問うと、彼は「Regular, normal, Buddhist one」と答えたのです。当たり前の、常識的な仏教型の葬式。聡明な彼は、葬式仏教の役割を正当に評価したと言えます・・・。

 そんなことを、カトリック教会で行われた友人のお葬式で思い出していました。たった数ヶ月前に病床で洗礼を受けた彼女は、マリアと呼ばれて棺の中にいました。美しい音楽と荘厳な雰囲気の中、千葉から出ていらした高齢のお父上の困惑しきった表情が、私には辛かった。宗教って何だろう、彼女の魂は本当に救われたのかしら、土に帰るのも容易じゃないなあ・・・。

 私はやっぱりレギュラーノーマルでいくぞ、と思うのです。故人の意思やら宗教組織の意図やらが際立たない、だれにとっても面倒でない葬式。季節の変わり目のはっきりしない国に育った私の心性を反映した、うすぼんやりと穏やかな野辺送りを夢見るこのごろです。

 連載「フェミニストの明るい闘病記」は毎月10日に掲載の予定です。以前の記事は、こちらからどうぞ。

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