エッセイ

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女が管理職になるということ(女の選択・6)  T子

2013.02.25 Mon

 この先、自分に必要なものがどれほどあるのだろうか。

 スーツにコート、バッグに靴・・・定年退職後、身の回り品を片付けていると、どれもこれももう出番がないものばかりのような気がしてくる。

 処分してしまおう・・・そう思いながらもひとつひとつのものを見ていると、買った頃や使った頃の状況が脳裏に浮かび、様々な思いが去来する。

 なかでもバッグは、働き始めてからの歴史を物語っているような気すらしてくる。

 最初の給料で買ったのはバッグだった。さすがに捨ててしまったが、茶色の革のショルダーバッグだった。ストレスでいっぱいだった頃、気分転換に買ったのは黒革のボックス型バッグ、勤続25年目に自分へのご褒美に買ったのは大きな袋型のバッグ。

管理職になったときのバッグ

 38年間のうち、いったいいくつのバッグを手にしただろう。もう忘れてしまったが、女にとってバッグは必需品であり、その時々の日常や気持ちを表しているものに思える。

 少なくとも私の場合はそうだった。

 49歳で管理職になったとき、すぐに買ったのもバッグだった。四角い、いかついバッグに資料を詰め込み、毎日職場へ通った。

  私が働いていたのは、10万人余が生活する地方都市の役所だった。私はそこで退職までの11年間を、管理職である課長や部長として過ごした。

 管理職になるのは長い間年功序列であり、大概の職員は余程の失敗がない限り、年がくれば順番に課長になった。ただし、それは男性職員の場合であった。時代の流れにより若干の女性職員も管理職に登用されたが、退職までの短い期間であったり、専門分野に限られていた。

 しかし、改革派の市長が誕生以後トップダウンで様々な政策転換が図られ、そのひとつに管理職昇任試験の導入があった。男性であればほとんどの職員が管理職になるという時代の終焉であり、男女を問わず、同じ位置にたつ機会を確保するというシステムであった。

 試験を受けるには、課長補佐として3年以上勤務していることが条件であった。私は同期の男性職員より随分遅れて課長補佐になったが、試験制度が導入されて2年目には受験資格があった。

 その頃の私は改革派市長の目玉政策のひとつである男女共同参画の推進を担当しており、自らの心情と経験も重ねあわせ、仕事に没頭していた。その少し前の時期には労働組合の女性部長も引き受けていたので、傍からみれば、たぶん男女平等を主張し、実践しようとしている人の最右翼という評価が定着していたと思う。

  逃げるわけにはいかなかった。

 本来の私は陰からトップを支えることの方が得手であったが、ここで昇任試験を回避していては、「だから女は・・・」「やっぱり女は・・・」という評価になる。私が女の足をひっぱってはいけない・・・そう考え、私は昇任試験を受けることを選択した。

  こうして、私は30人の職員が所属する課の課長になった。

 地方公務員というと、ひと頃は気楽で安定した職業と思われていたが、昨今では行革、人員削減が進められており、心身ともにハードな現場が多い。地方公務員といっても色々であるが、私が勤めていたのは多くの市民と接する常に多忙な職場だった。30人の職員がいても、1人も余分な職員はいない。1人でも欠ければすぐに影響がでてくる。職員や組織の事情で市民に迷惑をかけたり、混乱を招くことは絶対に許されない。

 新米課長にとっては厳しい職場であった。だが、新米課長であろうが、ベテラン課長であろうが、男であろうが、女であろうが、組織の長としての職責は当然ながら変わりはない。もちろん、新米だから、女だから・・・という言い訳は一切通らない。

 そして何よりも、部下の職員は課長の私を一番の拠り所に仕事をしている。私は、部下の職員たちが快く働けるよう環境を整えなければいけない。病気にならないよう配慮しなければならない。部下が困っていることは私が判断し、解決につなげなければならない。毎日のように様々な問題が生じたが、迷っている時間はなかった。私はこの課の職員がすることの責任をすべてこの身で受け止めなければならない。

 私はこのハードな職場で3年間必死に過ごした。

  管理職になると、さすがに「女のくせに・・・」とはいわれなくなった。しかし、課長が女であることがわかると、「あんたが課長か?」と明らかに軽んじた表情を浮かべる男性もいた。重要な会議や大人数の会議も参加者はほとんどが男性である。私が発言しようとすると、「何を言い出すのだろうか・・・」と一斉に視線がこちらを向き、空気が一変する。

 だが、言うべきこと、やるべきことに女も男もないはずだ。かん高い声と感情的で挑発的な発言は、「だから女は・・・」とすぐに拒否反応が見て取れる。私は抑制した声で論理的に話すよう努めた。
 めげてはいられなかった。

友人からの退職記念のバッグ

 そうこうして、私は11年間を管理職として生き、定年退職を迎えた。

 四角い、いかついバッグは、3年間私のお供をしてくれた。その後もいつも資料のはいったバッグを手にしていた。退職後、私のお供をしてくれるバッグは、退職記念に友人からプレゼントしてもらった優しい花柄の手提げである。いかついバッグとも、たくさんの資料ともお別れだ。この花柄のバッグに余生の楽しみを詰め込み、毎日をゆるやかに暮らしたいと思っている。

 「女の選択」は、毎月25日に掲載の予定です。以前の記事は、こちらからどうぞ。

カテゴリー:女の選択 / 男女共同参画

タグ:管理職