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社会のルールはどこまで守るの? 秋月ななみ

2013.03.15 Fri

発達障害かもしれない子どもと育つということ。5  就労支援をしている先生に、「発達障害を抱えてそのまま生きていけるのは、研究者しかありません」といわれた話を前回書いた。それは発達障害者は研究者を目指したほうがいい、という意味ではもちろんない。障害を抱えて「そのまま」生きていける職業は、彼の知りうる限り研究者だけであったという意味だ。もちろん、研究者であってもさまざまなしがらみはあるのだが、社会のなかで生きていこうとするかぎり、「そのまま」生きていくことはできない。就労するならば社会のルールに適応するためのそれなりの訓練が必要であるという、現場にいるからこその重みのある言葉だった。  自分はもともと、どちらかというと放任主義の子育て方針をもっていた。子ども自身が伸びる力をもっており、試行錯誤していくなかから何かをつかみとっていくだろう。親はその手助けをほんの少しすればよい。基本的な方針は今でも変わらない。でもコミュニケーションや想像力に問題を抱えている子どもに対しての手助けは、「ほんの少し」では済まないのである。  そもそも適切な手助けとはなにか‐‐そのことを考え始めると、途方に暮れる。発達障害の本を読んだり、現場の人の声を聞きに行ったりした結果思うのだが、教育方針としては、あたり前だが二つの立場があるように思う。「障害は個性なのだから、とにかくそのまま受け入れてあげるべき」という考え方と、「社会で生きる以上はきちんと社会的なルールを身につけさせてあげるべき」という考え方と。もちろんこの二つは誇張したモデルであって、実際にはその二つのスペクトラムのなかに身を置くことになるし、そもそも二つは背反するものではない。個性を伸ばし、全面的に受け入れてもらい、なおかつ社会のルールを守る人間もいるだろう。しかし社会の革新は、既存の「社会のルール」を打ち破るところからも始まることもまた事実である。この相対的な「ルール」をどのレベルで守るべきなのか。平たくいえば子どもを「型にどれだけはめればいいのか」をめぐっての「理想」や「目標」の設定の難しさがある(もちろん、子どもの個性もある)。 アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください. そんな自分がよく思い出すのは、発達障害である村上由美さんの自伝(?)『アスペルガーの館』のなかのエピソードである。村上さんのお母さんは村上さんの障害をいち早く見抜き、徹底した療育を施し、彼女は社会的な適応力を身につけている。小さなうちに「自閉症」であるという告知も受けている。かなりの苦労をして、孤独を感じることもあったようだ。対して村上さんのパートナーは、大人になってからアスペルガーに気がつき、小さな頃に療育も受けていない。傍目にはパートナーのほうが風変わりなのだけど、主観的にはどう考えてもパートナーのほうが気楽で、障害をもつ自己イメージも悪くない。極端なことをいえば、「どちらのほうが子どもにとって幸せなのかなぁ」とぐるぐると考えてしまう…。まだ答えはでていないのだが。  「どの子も他の子の気持ちを考えて行動してるんだよ」「そういうことをするとお友達に嫌われちゃうよ」「そういうことを言っていいのは家の中だけ」「いつも周りのお友達が何をしているのかなってちょっと見てごらん」「これはやっていい」「これはやっては駄目」。結局のところ、四六時中、子どもにやっていいこと悪いことを指示することになってしまっている。まったくもって本意ではないのだが、でも結果として「空気を読め」という、自分が好きではないことを子どもに教えているのだ。しかもそれは、やはり「集団行動がうまくできない」という自覚を子どもにもたらさざるを得ない。  また先生によっては集団行動ができないときに、「悪い子」だと叱ることもある。子どもが「あっちゃんは、きちんと並べないから悪い子なんだ」といいだしてぎょっとしたが、「悪い子じゃないよ! ちょっとできなかっただけで、それは悪い子だからじゃない。でもやった方がいいから、次からできるように頑張ろう!」と励ましつつ、少し甘やかす。でもそうすると手伝いに来る母が、「あんたが甘いから、子どもがあんなに『ワガママ』になるんだ」といいだして、収拾がつかなくなるからそれもまた悩ましい(何度も説明したけれど、母に「発達障害」を理解してもらうことは諦めた。理解の範疇は超えているらしい。「子どもの躾ひとつできない母親」だと思われておくことにした)。  とにもかくにも、自分ができることできないこと、自分がどのような人間なのかを把握しておくことは、どんな人間にとっても必要なことだ。その結果、「自分は他人とは違うのかもしれない」という意識を子どもがもつようになったとしても、仕方のないことなのではないかと思う。いつかは他人も一様ではないことに気づくだろう。また本人がストレスなく天真爛漫に振る舞っていても、周囲にストレスを与えるならそれも問題だ。子どもの人格や個性を受け入れつつも、行動面ではそれなりに訓練していくしかないんだろうなぁ。いつもいつも答えは出ない。 -------------------------------------------------- シリーズ:発達障害かもしれない子どもと育つということ。は毎月15日にアップ予定です。 このシリーズをまとめてよむためには、こちらからどうぞ。








タグ:子育て・教育 / 発達障害 / 秋月ななみ

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