エッセイ

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96条の会 わたしの訴え 岡野八代

2013.06.16 Sun

いま、「憲法改正」をどう考えるか――「戦後日本」を「保守」することの意味

著者/訳者:樋口 陽一

出版社:岩波書店( 2013-05-25 )

定価:

Amazon価格:¥ 1,620

単行本 ( ページ )

ISBN-10 : 4000222007

ISBN-13 : 9784000222006

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6月14日、上智大学にて開催された「96条の会」発足シンポジウム–熟議なき憲法改定に抗して、のパネル・ディスカッションに参加し、発言してきました。

樋口陽一代表からの、「立憲主義にとって96条「改正」とは何を意味するのか」という基調講演に続き、政治学者の山口二郎さん、文学研究者の小森陽一さん、憲法学者の長谷部恭男さん、そして司会の政治学者杉田敦さんとのパネルでした。

樋口さんは、96条を使って96条を変えることはできない、憲法の上にたつ「憲法」があるはずだ、という「憲法制定権」をめぐる、哲学的な憲法論にも巧みに触れながらも、憲法改正を96条から、というのは「裏口入学のよう」「打てない野球選手が、三振ではなく四振にしてくれ」と言っているようなもの、といった分かりやすい例示をしながら、いかに今回の改定案が、立憲主義そのものを踏みにじるものかを語られました。

わたしが一番印象的だったのは、2012年3月に京都で野党時代の安倍晋三が語った一節。〈たった3分の1の政治家の存在で、改憲できないのはおかしい。そういう横柄な政治家には退場してもらう〉という発言。

樋口さんによれば、正統な選挙で選ばれた国民の代表の3分の1もの政治家に対して、あまりにこれは「横柄」だと。「横柄」という言葉の使用方法もおかしいとのコメント付きでした。憲法という国家の基本精神を、反対意見があるから「退場」とは、そもそも3分の2の政治家たちが合意できるよう、熟慮を尽くす、といった96条の規定の意味すら分かっていない。

長年、憲法学の第一人者として活躍されてきた樋口さん。憲法で一つ大切な条項を挙げるとすると、13条です、ときっぱり。国家に「個人の尊重」を命じる条項です。自民党は、この「個人」に込められた重要な歴史的価値を認めず、さっくり「ひと」として改悪しようとしています。

以下、わたくし岡野の発言内容です。

憲法改正問題  いま、憲法学から改憲論議を問う

出版社:日本評論社( 2005 )

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雑誌 ( ページ )

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わたしは、憲法と「わたしたち」というテーマでお話したいと思います。

つぎの三つの観点からです。

① 「わたしたち」と民主主義との関係

② わたしたち女性の問題として

③ 現行憲法が保障する「わたしたち」のあり方そのもの

① 自主憲法論者がつとに論じているように、民主主義体制の下で「わたしたち」が憲法を決める、わたしたち主権者が自分たちで制定した憲法に従って生きること。たしかにそれが、民主主義、国民主権の大前提であることは確かかもしれません。しかし、この「民主主義」の原則には、多くの思想家を悩ます、民主主義自体のもつパラドクスが存在しています。ひとは生まれ、死ぬ、という普遍的事実を前に、わたしたちは今日の「わたしたち」と明日の「わたしたち」は違うということができますし、そうであれば、日々、憲法について国民投票をするのか、といった原理的な困難です。あるいはもちろん、さまざまな意見をもつ「わたしたち」が、国家の基本原理という非常に重要な問題について、分裂するであろうことは、いまわたしたちが直面している事態をみれば明らかです。憲法が最高法規である限り、単純な民主主義的手続き、つまり過半数という大ざっぱな改憲規定への変更は認められません。

もう少し具体的にこのことをお話しするためには、憲法は多数の意見によって動かされるものではなく、むしろ、歴史的に不利な立場に置かれてきた者、現在なお不利な立場に置かれ、政治的発言力が弱い人びと、すなわちマイノリティにとっては、最後の砦といってよい働きをしている点をお話したいと思います。それがわたしの訴えの、第二点目、女性の視点です。

② 民主主義は、本来は、他人の決めた法ではなく、自分たちで決めた法にのみ従う、だから法に従いつつ自由である、という体制を意味しています。しかしながら、「わたしたち」と民主主義との関係ですでに触れたように、「わたしたち」は様々であり、とりわけ多数派と異なる意見、異なる経験、異なる歴史的体験をもつ者にとっては、「わたしたち」というくくり方は暴力的にすぎます。とりわけ、現行憲法は、たとえば自民党改憲草案ではさっくりと削除されようとしている97条において、憲法が保障する基本的人権は、「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」、そして、「過去幾多の試練に耐え」てきた、とあります。現行憲法制定は、たとえば、それ以前の女性たちが置かれていた立場、二級市民であり、人生を大きく左右する婚姻をとりまく権利、財産権、教育権、職業選択の自由、そして言うまでもなく参政権などが剥奪された状態であったこと、その剥奪状態のために、家、社会、国家からあたかも道具のように扱われてきたこと、そうした試練を経て、女性たちに対する平等権・自由権を守ろうという、そうした歴史の中から生まれてきました。

しかしながら残念なことに、安倍首相はじめ、とりわけ改憲を政治的使命と考える政治家たちは、今でも、女性は日本の福祉の含み資産であるかのように考え、少し思い起こせば「産む機械」発言もあり、「女性手帳」問題で明らかになったように少子化対策の「対策」対象であり、経済成長のために「活用」されようとします。そして、戦争になれば、かつてのように「慰安所」で、道具のように扱われてもしかたがない存在なのでしょう。

つまり、憲法のもつ重要な働き、そのときどきの権力者の思惑、権力欲によって振り回されない国家の基本原則、つまり個人の尊厳を守るためにこそ、国家は存在している、という大原則は、歴史的にも社会的にも弱い立場に立たされざるを得ない者、つまり多数派を形成し得ない者にとってこそ、重要な原則なのです。

③ 最後に現行憲法が示す「わたしたち」のあり方について、です。わたしは自民党の改憲草案と現行憲法の最も大きな違いは、現行憲法のもつ時間的・空間的な広がりだと考えています。再度97条を引用しますが、基本的人権は、「現在の国民」だけでなく、「将来の国民に対し」信託されたものとあります。現行憲法は、これまでの歴史的な惨劇、暴力装置である国家が犯したさまざまな罪業といった過去に対する反省にたって、そして未来の国民に対して、「いま・ここ」における議論に参加できない人びとに対しても、謙虚に、個人の基本的人権を守ることを国家が約束することを誓っています。

また、現行憲法が自然権思想に立脚した基本的人権、個人の尊厳に対する保障を基本精神としている限り、現行憲法は、日本国民に限らず、日本社会を構成するその他の者たち、つまり外国人の権利についても、今後細やかに対応できるものである、とわたしは信じています。というのも、当然「わたしたち」の中には、同じ日本社会を構成する外国籍の方も入っているからです。その点、たとえば現行憲法においては禁止されているわけではないと判断されている外国人地方参政権についても、自民党改憲草案では、「国籍条項」によって不可能にされてしまいます。

以上まとめると、96条改憲案に表れている権力への意志とは、多様なあり方に開かれた、そして現に今でも多様である「わたしたち」の生き方そのものを、窒息させようとする意志なのだとわたしは考え、こうしてこの場での発言をさせていただきました。








カテゴリー:ちょっとしたニュース

タグ:岡野八代 / 憲法 / 樋口陽一