2013.09.10 Tue
地中海に面し、陽射しが明るいバルセロナは、コスモポリタンな雰囲気が漂い、旅人を惹きつける。それだけにバカンスシーズンの8月は、ヨーロッパ中から観光客が押し寄せ、市内のホテルはほぼ満杯状態になる。逆にバカンス休暇中の多くのバルセロナ市民は、この混雑を避けるように、地方や外国にバカンスに出かける。観光やサービス業に就いているひとたちはそうはいかないが、夏はバリセロナ脱出組も意外と多いのだ。
街を歩いていると、「8月中はバカンスで休業中」と張り紙をしている店をよく目にする。家族経営で成り立っているような小さな店が多いが、その張り紙を見ていると、一家でバカンスを楽しむ光景が目に浮かんでくるようで、私は思わず微笑んでしまう。
スペインは長引く不況の解決法がいまだに見いだせないまま、経済危機ばかりが報じられている。だが、そうした状況にあっても、休暇はしっかりととり、仕事から離れるのがいかにもスペイン人らしい。
「働くために」生きるのではなく、「生きるために」働くことが身に付いたひとびとは、自分のプライベートな時間を犠牲にしてまで働いたりしないのだ。
閉まっていた店もいつものように営業を再開し始めると、バルセロナは秋の気配が深まる。この時期、特にやってみたくなるのが「美術館巡り」である。
市内には50ものMUSEOS(美術館、博物館、資料館など)があり、街のなかにも、ミロの作品をはじめ、インパクトのある野外彫刻があちこちに点在して風景に溶け込んでいる。そういう意味でも、バルセロナは観光戦略として、「芸術の街」を内外的にアピールしているだけのことはある。
なかでも、この街と関わりの深いピカソ、ミロ、タピエスの美術館は見逃せないスポットだ。20世紀を代表するこの3人の巨匠たちは、日常を直視し、自分たちが置かれた世界、その構図、力関係をあふれる感情とともに表現してきた。絵画を通して、彼らの人生の足取りだけではく、その背景にあるカタルーニャの歴史や民族意識まで知ることができる。
スペインの思想家・オルテガは、「芸術は単なる装飾品でも趣味でもなく、歴史的パースペクティヴのなかでとらえた場合に、はじめてあきらかになる、多くの意味を持った人間的行為だ」としたが、力作を鑑賞する側の私たちは、間違いなく芸術家たちが放つエネルギーを得ることになる。そして、自らの世界を構築する…といってしまうと型苦しいが、自分の居場所でどう生きるのか、自分のやりたいことはなんなのか、といったことを自然と考えさせられるのだ。
・「青の時代」をそろえた「ピカソ美術館」
唐突だが、私はパブロ・ピカソと聞いてすぐ頭に浮かぶのは、反ファシズムのシンボルとしての大作「ゲルニカ」と、型破りな芸術家、岡本太郎だ。
「ピカソほど恐ろしく、そしてひきつけられる存在はなかった。野放図で、野蛮で優美、残忍と愛撫と、冷たさと燃え上がる血とがからみあった二十一世紀の奇蹟。世界中の表現欲が、ピカソという火山口から噴き上げている」(芸術新潮1953年7月)
岡本太郎が書いたこの文章を、はじめて私が読んだのは、まだ中学生だった頃だったが、ずっと心の片すみに残っている。 この一見矛盾した言葉の綾に戸惑いながらも、子ども心に、絵を見る面白さというのは、表現の奥に込めた画家の感情を想像することなのだなあ、ということだけはわかった気がした。
「芸術は爆発だ!」というメッセージをあらゆるメディアで発信した岡本は、1911年生まれで、ピカソより30歳年下である。彼は、実際にピカソのアトリエを訪ねた経験をもつだけに、この一文からは、ピカソに対しての強い憧れと競争心が伝わってくる。
そんなピカソの作品と出会える「ピカソ美術館」は、1963年に旧市街のモンカダ通りにつくられた。2000年に入ってから、年間入場者数が100万人を超えたとは聞いていたが、以後、年を追うごとに訪問者が増え続けているのが、この通りを歩いているだけで、はっきりとわかる。
今年の春、私が訪れたときも、チケット売り場の前では長蛇の列ができていた。近くにいる係員を捕まえてたずねると、最近では2時間待ちがあたり前になっているのだという。その言葉を聞いて、実はこのとき、私は入るのを諦めてしまったが、バルセロナを訪れたひとたちには、一度は絶対に観た方がいいと伝えている。
なぜなら、ここには若きピカソの「青の時代」の主要な作品が所蔵され、油絵、スケッチ、陶器、版画なども合わせると3500点以上の作品があるからだ。そのルーツをたどることができるだけではなく、ピカソが本質的に持っていた、狂おしいほどの絵画への欲求を理解することができる。
この美術館がバルセロナにあることから、往々にして、ピカソはカタルーニャ生まれと錯覚されやすいが、実際は1881年に、スペイン南部、アンダルシア州のマラガで生まれている。
ピカソは美術教師として働いていた父の転勤にともない、14歳のときにバルセロナに移住してきた。美術学校で絵画を学んだピカソは、美術教師である父を納得させようと、基礎的な技法を驚くべき早さで吸収していったらしい。彼はいきなり美術の流れを変えるような革命的な画家となったわけではなく、父の存在が大きく影響していたのだ。
同じ旧市街には、若き日のピカソ、ダリ、ガウディ、ミロなどが集まり、芸術論を闘わしたビアホール「四匹の猫」があり、現在も営業を続けている。この店は1900年に、友人たちに祝福されながら、ピカソの個展がはじめて開かれた場所でもある。
ピカソは、世界中にその名を馳せることになったキュービスム(立体派)を達成するまでの重要な転機をカタルーニャでつかみ、その独立精神と芸術家としての立ち位置は、「カタルーニャ・モデルニスモ」のなかで達成したものであり、フランスに移ってからも接触を持ち続けたスペイン人の多くはカタルーニャ人であったことから、彼の心はカタルーニャから離れることはなかったといわれている。
ちなみに、モデルニスモとは、19世紀から20世紀初頭にかけて流行した様式をさすが、モデルニスモ様式の建築物は、バルセロナが地中海の大国だった中世の栄光を取り戻すことを目的にしていた。政治・社会運動としてカタルーニャ・ナショナリズム、さらには文化運動としてのカタルーニャ・ルネッサンスと一体化していたのだ。
そうした動きは。歴史と文化の街であるバルセロナをアピールする目の象徴的な役割を果たしたが、「サグラダ・ファミリア」を創った建築家のアントニ・ガウディも、このモデルニスモ芸術の担い手として出発している。
私はバルセロナでピカソの作品と向き合うと、敬愛してやまない岡本太郎の姿も浮ぶ。果敢にピカソに挑み続け、「芸術とは全人間的に生きること」といった言葉を思い出し、ふたりの巨人にエネルギーをもらっているようで、私はワクワクしてしまうのだ。
・寡黙なミロの強い主張がある「ミロ美術館」
「ピカソ美術館」は、旧市街のなかでも中世バルセロナの趣を今にとどめる、15世紀のゴシック式邸館を改造してつくられた。この地区はピカソ自身が、多感な青年時代を過ごした場所でもある。
「ピカソ美術館」とは対照的に、地中海の陽光がふりそそぐモンジュイックの丘にあるのが「ミロ美術館」だ。ミロ自身がこの場所を選んだらしいが、ミロ本人が友人と協力して1971年に開館している。
ミロは友人の建築家に依頼し、地中海の自然光線を存分に取り入れ、壁は内外ともに白の漆喰、床は煉瓦、階段は木材にした。カタルーニャ・ゴシック特有の八角塔や中庭を配置した純カタルーニャ形式を採用した美術館からは、バルセロナ市内と地中海が見渡せる。
モンジュイックはバルセロナ発祥の地とされ、1992年にはバルセロナ・オリンピックが開催されたことでも注目された。
「伝統のないところに創造はない。私はいつも伝統から出発する」と、語り続けたミロらしく、バルセロナのルーツと歴史を意識した建設場所の選択である。
ミロの絵は、一見してミロの作品だとわかるユニークな色彩感覚と、子どものデッサンのような自由さにあふれているが、ミロ絵画の出発点は、前衛的な絵画運動であるフォービスムとキュービスムだった。フォービスムからは生命感あふれる色彩を学び、キュービスムからは形体の簡略化を学んだとされている。
「空中高くとび上がるためには、両足をしっかりと大地につけなければならない」というミロの言葉に象徴されるように、芸術家として自分自身が大地に深く根ざすことをつらぬいた画家である。
また、ミロはカタルーニャのロマネスク絵画から、自然形象の単純化の方法や色の使い方を習得し、ガウディの建築からも多くのことを学んでいる。そして創造的な色彩によってイキイキと描かれた、お伽噺の噴出したような世界は、彼自身の観察力、つまり注意深く考慮された観察の結果でもあるのだ。
「ミロほどカタルーニャの自然にこだわりつづけ、伝統と風土の摂理的な力を信じた芸術家はいない」と称されるのはこのためである。
青空に浮かび上がるような、近代的な建築美を放つ「ミロ美術館」には、ミロが寄贈した5000点もの作品展示があり、スケッチやノート類まで入れると約1万点にものぼる。館内の企画スペースでは、若手アーティストの作品展も積極的に行われている。
ミロの意図は、ここを「コミュニケーションの場」や「創造の場」としても広く役立て、さらに現代美術に情熱を燃やすひとたちの出会いの場とすることであった。この美術館はまた、芸術をより多くの人びとに近づけることを理想としたミロが、私財をなげうって次世代に残した遺産でもある。
ミロの作品を観るとき、私は心が拡がっていくように感じる。その時々で、心に響くのは、一本の力強い線であったり、また星のカタチであったり、ただ絵具を落としただけのシミであったりするのだが、それらがどれひとつも邪魔をすることなく調和して、観たことのない宇宙を浮かび上がらせてくれるのだ。その光景が、その時々の私自身の心境によって微妙に変化するのが、私は不思議でたまらない。
・ピカソとミロを手本としたタピエスの仕事
旧市街の「ピカソ美術館」やモンジュイックの丘の「ミロ美術館」とはまったく違う雰囲気の場所にあるのが「アントニ・タピエス美術館」だ。19世紀の半ばに、市の拡張工事によって作られた新市街に建っている。
ピカソやミロに比べ、アントニ・タピエスは、意外にも日本ではあまり知られていないが、1996年には、日本でも大規模な回顧展が行われている。残念ながら昨年、88歳で亡くなったが、スペイン現代美術を代表する芸術家のひとりであり親日家であった。
美術館の屋上には、針金で作られたオブジェが乗っていて、その奇抜なデザインが目を引く。私はずっと、屋上のオブジェは「巨大な自転車」だと思い込んでいたが、最近、この作品名が「雲と椅子」であることを知り、自分の思い込みの激しさと、そっそかしさにあきれてしまった。
それはさておき、ガウディと同時代の著名な建築家、ドメネク・イ・モンタネールによって設計された建物は一見の価値がある。「タピエス美術館」は、1階は現代美術の企画展スペースとして使われ、2階にタピエス自身の作品が展示されている。
タピエスはバルセロナで弁護士の家庭に生まれ、多感な13歳から16歳までの間に、スペイン内戦も経験している。彼はサルトルやハイデガーなどの実存主義の哲学を愛読書とし、バルセロナ大学法学部で法律を学ぶかたわら素描を学び、途中で法律を放棄して美術の世界にはいった画家だ。
タピエスの画風はアンフォルメル(否定形)といわれ、あらゆる形式的配慮を捨てて、生きることの緊張感を、強烈なマチエールや激しい表現行為に託すスタイルである。
1970年代にはポップ・アートの影響を受け、家具の破片などの大きな物体を絵画に加えるようになってきたが、こうしたタピエスのアイデアは世界中の芸術、特に絵画、彫刻、版画の分野に大きな影響を及ぼした。
「鬼才」とも称されるタピエスの作品は、素材をそのままキャンパスにぶつけ、「破壊」をイメージさせる×印が多く描かれているものや、また文字を反転させて描いた絵も多い。バルセロナ市民のサッカークラブとされるFC.バルセロナの創立100周年記念ポスターを制作した際には大きな話題となった。
日本では1996年にタピエス著の『実践としての芸術』が出版されたが、そのなかでこう記している。
「芸術は知の源である。科学や哲学などの源である。現実認識を修正していくために人間が企てる偉大な闘争である。芸術を通じて、芸術家は自らを高め、自らを解放する。(中略)ある形式が、発表の場としての社会を傷つけ、怒らせ、反省させることができなければ、あるいは社会の停滞を浮き彫りにし、社会を刺激することができなければ、真の芸術作品とは言えない」
さらに次のように説いている。
「芸術家は鑑賞者に、彼らの世界の狭さを悟らせ、新たな地平を開いてやらなければならない」
いささか教条的な文章ではあるが、芸術が社会の目を開花させる能力を持つと同時に、それはまたある種の役目でもあるとし、画家の社会的使命を意識してきたひとである。それだけに、同書のなかで、タピエスはピカソやミロのことを次のように記述している点も、私にはとても興味深い。
「1940年代の我が国の若者たちの多くは、いつでもきちんと頭を梳かし、ネクタイを締めて、行儀良くかしこまっていられるものだと信じ込んでいた。ピカソの作品同様、ミロの作品が彼らに与えた密かな衝撃は、彼らに自覚を持たせるのに大いに役立った。もちろん、それは単に、美術という分野の内部に限られたものではなく、彼らの生の全体に係わるような性質のものであった。創造者の影響力とは常にそうしたものである。人間と歴史をねじ曲げようとする力を目前にして、目を開かれようとしていた者たちにおいて、その感動はとりわけ深かった」。
タピエスは、ミロの絵が若者たちの心を開眼させたとし、権力者のいいなりになるのではなく、郷土への愛や自らの自由を守る意志を示す人間へと目覚めさせたとしているのだ。
ピカソとは対照的に、ミロは大々的に政治的な発言をしたり、社会批判の作品を発表してきたわけではない。しかし、ミロが常にカタルーニャの大地に根ざした作品を作り続けた、その寡黙なまでの創作活動の姿勢そのものを評価している。
タピエスがピカソやミロから多大な影響を受けているように、絵画に触れることは、鑑賞する側にとっても、しばし芸術家の思想に耳を傾けることにもなるのだ。
・「アートチケット」でお得に見てまわる
私はこの夏、久しぶりに「ミロ美術館」に出かけたが、入場料は12ユーロ(1ユーロは約130円)。バルセロナ市内を見渡せるモンジュイックの丘に建つこの美術館のロケーションと展示作品数を考えると決して高いとはいえないが、いくつかの美術館に足を運べる時間があるのなら、アートチケット(ARTICKET BCN)を手に入れた方が経済的だ。
30ユーロで販売されているこのチケットを買えば、これまで書いてきた3人の画家の美術館=「ピカソ美術館」、「ミロ美術館」、「アントニ・タピエス美術館」に加え、「カタルーニャ美術館」、「バルセロナ現代美術館」、「バルセロナ現代芸術センター」の合計、6つの美術館に入館できる。チケットの有効期限は3ヶ月で、上記のいずれかの美術館のチケット売り場か、カタルーニャ広場のツーリスト・インフォメーションセンターなどで購入することができる。どの美術館も地下鉄やバス、ケーブルなどの公共交通機関を使って行けるので、回数券を買って移動すればさらに経済的だ。節約になるだけではなく、電車に乗り合わせたひとたちを眺めたりするのも面白い。
バルセロナの公共交通機関は、私にとって人間ウォッチングの場所でもある。ファッションひとつとっても、みんな着たいものを好きなように着ている。真夏でも、革ジャンを羽織っているひとがいれば、日本人の私から見れば、下着にしか見えない洋服で、肌を露出している困る女性も目立つ。ブラジャーの紐が飛び出ていようが、みんな平気で誰も気にしない。これも「コスモポリタンな街」の証拠だなあ、と思ったりする。
もともとコスモポリタニズム(cosmopolitanism)は、民族や国家を超越して、世界をひとつの共同体とし、すべての人間が平等であるという思想だ。その流れから考えると、平等であるということは、着る物や身に付けたもので、ひとを格付けしないということであり、着る物は本人の自由、ひとからどのような人間かを判断されるための道具ではないということにもつながる…。
そんなことを感じながら、洋服も行動も自由気ままに楽しんでいるひとたちを見ていると飽きることがない。まるで映画を観る気分にもなるのだが、奇抜なファッションに身を包み、周囲に気など使わないひとたちも、マナーは意外に悪くなく、私は嫌な思いをしたことがほとんどない。
話が横道にそれてしまったが、モンジュイックにある「ミロ美術館」からは、バス1本でスペイン広場に出ることができる。木々が茂り、眺めも良く、健脚でなくても歩ける散歩道だ。
スペイン広場の手前には「カタルーニャ美術館」がある。ここではロマネスクの秀作が並び、急いで観てまわるのはもったいない規模の美術館だ。
「ピカソ美術館」のように、特に混雑しているところは別として、秀作を見るときに作品から作品を、忙しく移動してしまうのはおすすめしない。私自身、つい欲張ってしまい、何度も船酔いしたように、気分が悪くなったことがあるからだ。ゆったりと余裕を持って観るには、半日にひとつの美術館ぐらいがちょうどいい。週末の夜なら、スペイン広場の前で行われるダイナミックな「噴水ショー」も楽しむことができる。
「アートチケット」で入れる美術館の周辺をブラブラするのもいい。「ピカソ美術館」のある旧市街にはBarや商店のほかに市場もあり、バルセロナが様々な人種のるつぼであることを感じさせてくれる。
「ピカソ美術館」のあるあたりは、20年以上も前なら、スリや犯罪の多い危険な場所といわれていたが、1992年のバルセロナ・オリンピック以降、年ごとに安全になり、怪しい雰囲気も少なくなった。
新市街の「アントニ・タピエス美術館」は、おしゃれなグラシア通りに近く、レストランや有名ブティックが並んでいる。
美術館はまた、絵画を楽しむだけではなく、ひと息つける場所でもある。館内にはBarがあり(残念ながら、ピカソ美術館のbarは閉店してしまったが)、鑑賞した余韻を楽しむにはうってつけの空間だ。館内に常設されているショップでは、図録やハガキ、文房具などが買えるため、お土産物をわざわざ買いに行く手間も省ける。
半日、自由な時間があれば、私はどこかの美術館で気ままに過ごす。何度、この街を訪れても、これが最もお気に入りの過ごし方だ。
「ピカソ美術館」、「ミロ美術館」、「アントニ・タピエス美術館」のこの3つを、私は感性を刺激する〝ゴールデントライアングル″と密かに呼んでいる。
カテゴリー:スペインエッセイ
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