2013.10.16 Wed
“顔”を与える行為
坂上 香(ドキュメンタリー映画監督)
沈黙から語りへ。それは、抑圧された者、植民地化された者、搾取された者であると同時に、癒し、新しい人生、成長を可能にする行為を支持し、それらと共闘してきた者のために存在する。それは申し立てる (talking back)という行為であり、空虚な言葉の寄せ集めではない。それは、客体から主体に移り変わる事についての表現であり、解放の声である。
ベル・フックス[1]
現在制作中の映画「トークバック 女たちのシアター」(仮題)は、サンフランシスコの女性短期刑務所で生まれたマージナルな女たちの劇団「メデア・プロジェクト:囚われた女たちの劇場(The Medea Project: Theater for Incarcerated Women) 」についてです。2006年から2013年現在まで8年に渡って取材を続けてきており、近々完成を予定しています。今回は、主人公の一人、カサンドラという女性についてです。
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2013年1月28日、私とカメラマンはメデア・プロジェクトのメンバーの一人であるカサンドラと一緒にバスに乗り込みました。行く先は、彼女の次女ニコルの家です。サンフランシスコの中心街から1時間程度のオークランドという地域で、降り立った場所はかなりすさんでいました。撮影しながら歩いていたため、道行く人がカサンドラに話しかけてきます。「どこのチャンネル?どのニュース番組?」と。
これでも状況はかなり良くなったとカサンドラは言います。数年前までは、昼間からギャング同士の撃ち合いがあり、強盗にあう危険もあったので一人では歩けなかったと。そして、次女が住むアパートの入口に差し掛かる頃、クリスマスに銃撃戦があり、私たちが立っているこの場で人が死んだのだと。クリスマスといえば一ヶ月前。郵便受けのあたりにある幾つもの弾痕を見ながら、身が引き締まる思いがしました。これが彼女たちの生きる現実なのだと。
次女ニコルを最後に見かけたのは、2010年のメデアの上演時でした。トークバック・セッション(上演後の観客と演者のやりとりの場)で、30ぐらいの若い黒人の女性が、涙をぬぐいながら発言していました。「母親がここまで変容を遂げることができたのはメデアのおかげ。ありがとう」と。それがカサンドラの娘だと知ったのは、直後にカサンドラが、舞台から言葉を返したからでした。「女であることに誇りをもって生きて欲しい」と。
それから3年後、私はニコルにインタビューをしたいとカサンドラに頼み込んだのでした。何度かのやりとりの末OKをもらったものの、ニコルはかなり緊張していました。「泣いて言葉にならないかも」と何度も言うのです。結局、カサンドラに隣に座ってもらい、ツーショットでインタビューすることにしました。
1歳で親に捨てられ、里親宅を転々とし、その後祖父母(カサンドラの両親)の元へ預けられたこと。祖父は生活のために仕事を幾つも掛け持ちし、まだ幼いニコルが、寝たきりの祖母の介護をさせられたこと。いつも孤独だったこと。自分が捨てられたことに強い憤りと絶望を感じていたこと。11歳で走行車に身を投げて自殺をはかったこと。同じ頃、祖父母の家を2度に渡って放火しようとしたこと。違法ドラッグを手当たり次第使っていたこと。自分が与えられなかった愛を子どもに注ぎたい、いい母親になりたいという思いを抱いて14歳で妊娠、15歳で出産したこと…。
とりわけ胸をついたのは、15歳の誕生日祝いのケーキを買うために、カサンドラが身体を売りに行ったというくだりでした。当時二人には住居がなく、カサンドラの男友達の家やモーテルを転々としていました。そして母娘共に、生き延びるために性産業に従事していたわけですが、その事を語るニコルからは、自分のためにそこまでしてくれた母親への感謝の気持ちと同時に、他に生きる術がなかった状況に対しての憤りも感じられました。
2時間近くの間、ニコルは時々感情を高まらせていましたが、涙を見せることもなく、気丈に、そして実に率直に語ってくれました。現在の夫や教会との出会い、カサンドラとの関係修復など、希望を感じるエピソードもたくさんあり、カサンドラと掛け合いで何度か笑いも起こり、私はインタビューの間じゅう深く感動していました。過酷な過去を背負った親と子それぞれが、問題を少しずつ乗り越え、成長し、関係を修復してきた。その過程を映像化することはできないけれど、二人の語りを通して追体験させてもらうことができる。日本の社会にだって詳細は違えども、様々な問題を抱えている親子がいる。二人の語りには、国境を越えて希望を感じる人が少なくないはずだと思ったのです。
帰国して、ラッシュを見始めたある日、ある事に気づきました。気丈に語るニコルの横で、カサンドラの表情が幾度もこわばんでいたのです。走行中の車に身を投げようとしたエピソードのところでカサンドラは息を小さくのみ、視線を斜め上に飛ばし、目を潤ませていました。その他にもニコルが捨てられて絶望したことや孤独だったと語っている時に、カサンドラの表情が微妙に崩れ、自分で自分を落ち着かせようとしているように見えました。私自身、撮影現場で、娘の証言を直接聞かされるのはきついだろうという思いが一瞬よぎりはしたけれども、ニコルの話に集中していて、気づいていなかったのです。
カサンドラにとって、娘をインタビューされることは、そしてその横に居合わせることは、相当辛かったに違いありません。そこまで彼女が腹を割ってくれたことに感謝しつつ、その場面を大切にしようと誓ったのでした。
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その3年前の2010年1月末、私はカサンドラの撮影許可をようやくとりつけました。メデアの取材を始めてからすでに5年近くが経過していて、新作が2ヶ月後には上演される時期だったにもかかわらず、HIV陽性である劇団員へのインタビューはこれが最初でした。内心とても焦っていました。
(5)でも説明したように、2008年以降加わることになったHIV陽性の女性達とメデアの既存のメンバーたちが関係を築くまで会わせてもらえず、1年近くかかったこと。日本と米国という遠距離取材でなかなか腰を据えて私自身が彼女たちとうまく関係を築くことができなかったということ。加えて、私が直接彼女たちに取材依頼を行うことが許されず、代表のローデッサやマネージャー、時には病院の医者からの許可も必要とするという厳重な態勢だったことがその主な原因でした。
当時HIV陽性者の劇団員は9名いました。全員を映画でフィーチャーするわけにはいかないので、数名に絞る必要があるわけですが、私はカサンドラを真っ先に選びました。決して演技やダンスが上手いわけでも、目立つ存在でもなかったのですが、フレンドリーで皆から信頼されている様子や、幼い孫をいつもリハーサルに連れてくる彼女がとても気になったのです。
ただ、彼女とは何度かリハーサルの合間におしゃべりする程度で、腰を据えて話したことがありませんでした。通常は、カメラを回し始める前に信頼関係を築けていて、取材対象についてもある程度把握できているので、インタビューの内容や方法についても事前に練っていきます。今回はそれができません。同行したカメラマンに、いつもと勝手が違う事情を説明しながら、早朝、カサンドラのアパートへ向かったのです。
カメラマンと私の二人を出迎えてくれたのは、2歳半のバサディでした。パジャマ姿でアパートから飛び出てきた彼女は、リハーサルで面識のある私達に笑顔を見せ、カメラや三脚をみて目をぱちくりさせ、何か事件でもあったかのように「おばーちゃん!」と大声で叫びながら、部屋の中に戻っていきました。その愛くるしい姿を目にするだけで、何だか不安が吹っ飛んだ気がしました。
バサディはカサンドラの孫で、長女の娘にあたります。長女が薬物事犯で刑務所に服役中であるため、カサンドラが面倒を見ていることは知っていましたが、そのいきさつや、カサンドラ自体の人生について詳しく聞くのは、この日が始めてでした。
バサディにご飯を食べさせる様子を撮影している最中、最近撮ったという写真を見せてくれました。フェイスペインティングをした二人が写っているもので、バサディの誕生日パーティーの時のものでした。「ママに写真を送ろうね。あんたがどれだけ大きくなったか、ママに見てもらおうね」とカサンドラが語りかけると、バサディは嬉しそうにウンウンと首を縦にふり、そして、本棚に飾ってある写真を指したのです。その写真はバサディと一緒に写る母親の写真でした。
まだ2歳半のバサディには刑務所がどういう場所であるのかはわからないはずです。幼い子どもに刑務所のことを隠すこともできる。しかしあえてそうしなかった。バサディは母親がどこか別の所に存在していることを認識していました。それは、カサンドラが、面会や文通や電話を通して、娘親子の絆をつなぎ止める努力をしていたからです。私は胸が詰まる思いがしました。
カサンドラ自身、「覚えていない」というほど逮捕や勾留を繰り返してきました。違法薬物の所持や取引罪に始まり、住居侵入罪、窃盗罪、詐欺罪、横領罪…。その背景には薬物依存症の問題があること。伯父、兄、隣人らからの性暴力、親のネグレクト…幼少期からの被虐待歴に加えて、つきあう男性からことごとく暴力を震われてきたこと。DV家庭に育ったため、暴力を愛の形だと誤解してきたこと等、インタビューで赤裸々に語ってくれました。
彼女がHIVに感染していることを知ったのは、刑務所の中。血液検査の結果が書かれた紙を見て知ったのです。病や治療についての情報は全く与えられず、単に伝えられた病名に、彼女はどん底の淵に追いやられます。「エイズはゲイの病気、ありえない」という思いで、出所後6つの医療機関を訪れますが、いずれも結果は同じで、陽性。「エイズ=死」と思い込んでいた彼女は、クスリ漬けで死にたいと自暴自棄になり、何年もの間、荒れた生活を続けます。そうして出会った、偏見のない医者エドワード・マッティンガーと彼がディレクターをつとめるカリフォルニア大学病院サンフランシスコ校のHIV女性プログラム。そこで紹介されてつながったメデア・プロジェクトの活動。
彼女は、メデアによる新作「愛の道化師と踊る」で、そうした自分の旅路を表現したのです。そして、毎回次の台詞で締めくくっていました。
「HIVへの偏見をなくすために、私はHIVに“顔”を与える。」
(続く)
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写真のキャプション:
メデア・プロジェクトの芝居「愛の道化師と踊る」でHIVに感染した一人の女性として、ライフストーリーを語るカサンドラ。photo by Kaori Sakagami
[1] hooks, bell. Talking Back: Thinking Feminist, Thinking Black. Boston: South End Press. 1989.p.9.
カテゴリー:新作映画評・エッセイ / 坂上香監督の“トークバック”製作ノート