エッセイ

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歳をとったら、ひとりになろう(旅は道草・45) やぎ みね

2013.10.20 Sun

 提案。歳をとったら、みんな、ひとりになろう。誰からも邪魔されず、短い、あるいは長い余生を、ゆっくりひとりで生きていくのも楽しいじゃない?

  基本に帰ってひとりで食べてひとりで住む。誰かと一緒に暮らしたいなんて「ふつう」の生活さえ選ばなければ、気分も体もキリッとすると思うけど。

 18年前、ひとりでワンルームマンションに引っ越したとき、身の回りのものを全部捨てた。ひとり分の食器とお気に入りの服と狭い部屋に入るものだけを詰めて。アルバムも捨ててしまって過去の思い出もなくなった。ただ本だけは捨てられなくて重い荷物になったけど。
 引っ越し荷物はダンボールに15個。すべて準備が終わった翌朝、阪神・淡路大震災が起きた。

 もと夫の父が、その前年の暮れに亡くなった。87歳だった。

 その18年前、義母ががんに倒れ、予後を看るため、私たち家族は押しかけるようにして東京から京都に帰ってきた。母の看とりを5年、それから7年して私たちは離婚した。その後、父と息子の男ふたりの暮らしが始まった。

  妻を亡くし、嫁に去られてからの父の対応が自然だった。明治生まれの着物職人の父は、母が生きている間は横のものも縦にしない不器用な頑固さをもっていた。母の葬儀が終わった夜、台所に立つ私を呼び止め、律儀に「これからもよろしく」と挨拶をした父に、ほろほろと泣かされたことを思い出す。

 その父が不思議なことに、だんだんと自立していった。自分でできることは手を煩わせず暮らすようになった。男の甘えを捨てたのだ。

 私たちが別れるとき、「わしには、ようわからんな」と言いながらも何も文句は言わなかった。そののちも時々、父を訪ねる私に「よう来たな」とおいしいお茶を入れてくれた。

  父は歳をとるほどに実にいい顔になっていった。迫る老いと自分のあずかり知らぬ周囲の変化にも動じないかのように。

  晩年、脳梗塞で倒れ、亡くなるまでの1年半、息のあった家政婦さんと絶妙のコンビを組んでいた。そして父の最期を看とったのは、なぜか最初に駆けつけた私だったのも不思議に思う。

  あれから20年、今でもたまに夢に出てくる父は、捨てるものは捨てきった、穏やかなすがすがしさを私に残していってくれた。

 「生老病死愛別離苦」。人には思うにまかせぬことがいっぱい。どうにもならない生老病死は自然の摂理。生まれて、老いて、病んで、死ぬのは誰もがいつかは受け入れなければならないこと。だけど愛別離苦は生きている間の別れだから、つらいなあ。生きてある私と相手との別れや死、離れ離れになるのは理不尽なことには違いない。

 その理不尽さを自ら選びとるには何かを捨てなければならない。フィフティ・フィフティの別れなんてあり得ないから。どこで思い切りをつけるか。思い残すことは何もないといえるまで、捨てたもの、残したもの一つひとつを大切に思うしかないのかもしれないな。

 歳をとったら、みんな、ひとりになる。高齢社会をよくする女性の会は、先頃、厚生労働省に介護保険の「おひとりさま仕様」を提言したという。そう、ひとりを選ぼうと、選ばされようと、もう家族単位で介護はむりなのだ。

  ひとりで生きる。病気になって困ったときは周囲に「迷惑」をかけていけばいいのだ。私も「迷惑」をかけられてヨシとしよう。

  女はわがまま、男はエゴイストというけれど、女はもっとわがままになって世の中を変えていけばいい。男の理屈や論理はいらない。女の語りや生身の体験を力に、行動を起こしていけば変革は可能となる。

  「見るべきものは見つ」と言えるまで、まだまだ私の道のりは遠い。ならばもう少し、ひとりで長生きしてみないといけないかなと思っている。

  「旅は道草」は毎月20日に掲載の予定です。これまでの記事はこちらからお読みになれます。

カテゴリー:旅は道草

タグ:くらし・生活 / / やぎみね