2013.11.14 Thu
「不可解」な存在と詩
坂上 香(ドキュメンタリー映画監督)
私にとっての解決策はたったひとつ。他者によって作り上げられた、私にまつわる舞台を超越すること。
フランツ・ファノン
現在制作中の映画「トークバック 女たちのシアター」(仮題)は、サンフランシスコの女性短期刑務所で生まれたマージナルな女たちの劇団「メデア・プロジェクト:囚われた女たちの劇場(The Medea Project: Theater for Incarcerated Women) 」についてです。2006年から2013年現在まで8年に渡って取材を続けてきており、近々完成を予定しています。今回は、主人公の一人、デボラという女性についてです。
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2010年3月7日、舞台の中央でスポットライトを浴び、凛と立つ、一人の女性の姿に私は息を飲みました。仮面を施したような化粧、黒いサテンの衣装、胸に白く光る「私はHIVと共に生きている」の文字。それらが、背景に流れる祈りのような歌とあいまって、スピリチュアルな雰囲気を醸し出しています。
彼女の名前はデボラ。20年前にすでにAIDSと診断されています。90年代の半ば以降、治療薬の開発が劇的に進み、HIV/AIDSはもはや死の病ではなくなったのですが、デボラが診断を受けたのはそれ以前のこと。自らを「長期のサバイバー」と呼んでいます。
デボラとの出会いは、舞台の一年程前に遡ります。メデア・プロジェクトの新作「愛の道化師と踊る」の制作過程の中盤で、私自身がリハーサルへの立ち会いを許可されて間もない頃のことでした。
小さく華奢な身体にギョロっとした目、片方の足を引きずるような歩き方、消え入りそうなか細い声と、もそもそと口ごもる不明瞭な話し方。おまけに、仲間から離れた所にポツンと座って、ボソボソと独り言をつぶやくこともしばしばで、ストリートでよく見かける風変わりなタイプの人。正直、私にとってデボラは「不可解」な存在であり、彼女が舞台に立つ姿を想像できずにいました。
そんなある日のリハーサルで、彼女が自作の詩を朗読しました。演出のローデッサ・ジョーンズや仲間たちから「もっとはっきりと」「大きな声で」「ゆっくり」と容赦ない指摘が飛び交います。その度に、口ごもり、照れ笑いをし、体をくねらせる自信なさげなデボラ。しかし、デボラによるこの自作の詩によって、私の彼女に対する見方が大きく変わったのです。
「私の血」
デボラ・レネー・キング
私の血 祖先の血
祖母は 白人の農園で 奴隷として働かされていた
祖母は 洗濯やアイロンがけを 黙々とこなした
日が昇る頃から日が暮れるまで
祖母は 身を粉にして働き
家主が死んで ようやく解放された
母も 幼い頃から 綿花畑で働かされた
自分の靴や服を 揃えるために
稼ぎは一山たったの20セント
これが私に流れる 強い女たちの血
私はHIVに感染した
でも 私には 曾祖母 祖母 そして母から受け継いだ
強さがある
耐え難い日もある
だけど 生きる使命を感じる
悲しい時も 楽しい時も 怒りを感じる時も
私はHIVと生きる
この詩は、「奴隷」が単なる歴史的事実ではなく、彼女にとって身近でパーソナルな歴史なのだということを、気づかせてくれるものでした。しかも、HIVと奴隷という、一見関係のない二つの事象をつなげることによって、祖先への敬意が彼女を支えているのだということがわかります。私にとっては今まで「不可解」な存在だったデボラが、この詩によってグッと近づき、映画の主人公の一人にフィーチャーしたいと思うようになったのです。
ローデッサは彼女の詩を褒めたうえで、次のような課題を出しました。女系の祖先の名前を調べあげ、具体的な名前をあげてみるべきだと。そうすることによって、デボラの祖先に対する気持ちや彼女たちとの見えない関係が、より身近なものとして観客にも伝わってくるはずだと。
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メデアのリハーサルでは、かならずチェックインという時間を持ちます。最近の出来事から、過去の被害体験に至るまで、仲間に共有したいと思うことを何でも話せる「安全な空間」です。そこでは、暴力、とりわけ性暴力が頻繁に話題になります。
ある日、ローデッサが口火を切りました。彼女の母親が、十代の頃、性暴力に遭ったことを最近思い出したと。加害者は、近所に暮らす顔見知りの白人男性と、その友人ら3人です。彼らは魚釣りに行った帰りがけ、まるでリクリエーションの一部であるかのように、彼女の母親を輪姦したのでした。母親は、その事を誰にも話せないまま、大人になったのです。父親や叔父らが、彼らに仕返しをするのではないか。もし、彼らが加害者を殺したら、刑務所行きになるかもしれない。最悪、死刑になるかもしれない。自分のせいで家族に迷惑をかけたくない。そんな風に恐れて母親が沈黙していたことを、ローデッサは大人になってから知ったのだといいました。
ローデッサの話を聞きながら、 皆、深くうなづいていました。そして、性暴力の被害が次々に語られていったのです。デボラもその一人でした。
デボラは11,12歳の頃から数年間に渡り、叔父による性暴力を受けていました。叔父は彼女にクスリを与え、一緒にハイになっては、彼女のふとんにもぐりこんできたのです。デボラは何をされているかわからないままレイプされ、「シー、誰にも言うな」と脅迫され続けました。
そのことを、彼女は誰にも言えないままでした。混乱した気持ちを封じこめるためにクスリの使用量も増え、より強いクスリに手を出すようになり、クラック依存になったのです。この体験以外にもデボラは様々な暴力を受けていましたが、そのことに向き合えるようになったのは、依存症の回復施設に身を置いた、ほんの数年前のことです。きっかけは2つ違いの姉、レジーナの存在でした。
デボラはこの芝居の制作中に、レジーナを亡くしています。驚いたことに、姉も同じ病に冒されていたのです。死因は、AIDSによる肺炎でした。
姉を看取ってから2週間後、メデアが招待された、ある大学でのイベントで、デボラはその事実を明かしました。そして、姉のことを記憶に留めておくためにも芝居を続けていきたいと涙ながらに語ったのです。仲間たちに脇を支えられながら。100名余りの観客は、割れんばかりの拍手を彼女におくりました。
デボラと姉の感染経路が同じであるという衝撃的事実を知ったのは、それから半年程経ってからのこと。インタビューの撮影時でした。
「当時、姉と私は同じ男性と関係を持っていて、姉が感染したことを知ったの。それで、『もしかしたら私も』って思ったの。」
あまりにさらっと流すので、現場では、私の聞き間違いかもしれないと思ったぐらいです。後日、映像を何度も見直し、聞き間違いではなかったことを確認したのですが、改めて彼女たちの現実と私の現実の「違い」に愕然とさせられたのでした。
と同時に、その「違い」を受け入れられず、「不可解」な存在として切り捨ててしまう「私」について、彼女たちを沈黙させている「私たち」について、考えさせられたのです。
デボラは薬物依存症です。刑務所と薬物依存症者の回復施設を何度も行き来していました。クラックに依存していた彼女は、クスリのため、そして生活するために、長年、娼婦として路上に立っていたのです。姉も同じでした。感染源である男性は売春の仲介人で、姉妹共に、仕事を通して知り合ったのです。彼と性交渉を持つのは、仕事を斡旋してもらったり、守ってもらったりするうえでの、見えない掟だったのでしょう。
ローデッサは問いかけます。デボラのような、一見「不可解」とされる女性たちに、いったい誰が関心を寄せてきただろうかと。彼女達が、どのような状態に置かれ、どのような現実を生きてきたのか、そしてどこに向かおうとしているのかということに、私たちはどれほど耳を傾けてきたのだろうかと。
舞台の本番では、前述の「私の血」は、次のような作品に姿を変えました。ローデッサの問いかけ、一年余りのリハーサルや仲間との時間、そして自らの手と声によって。
「私はあなたに生かされている」
デボラ・レネー・キング
カデア・ダイス
あなたが 私に力をくれる
レディー・ホワイト
私には あなたが聞こえる
アイリーン・ジェファソン
私には あなたが見える
タイニー・ジェファソン
私は あなたの気配を感じる
ロージー・ウィリアムズ
私には見える 力をくれるあなたの姿が
ドロシー・ジェファソン
私は感じる あなたの存在を
レジーナ・キング・ディックス
1962年に陽が昇り2009年に沈んだ
姉はAIDSによる肺炎で他界
私は あなたに生かされている
姉よ 私はあなたを愛している
(続く)
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カテゴリー:新作映画評・エッセイ / 坂上香監督の“トークバック”製作ノート