2014.01.20 Mon
ひとりの一生は、ひとつの物語だ。その人の人生は個人のものであるとともに、その人の生き方から深い歴史と広い世界が見えてくる。
ラジオ深夜便の「母を語る」のコーナーを聴いて、船曳由美著『100年前の女の子』(講談社)を、ぜひ読みたいと思った。
これは、ひとりの女の子の物語である。女の子の名は寺崎テイ。雑誌『太陽』創刊号から編集に携わり、今もフリーの編集者である著者が、この本を上梓したとき、母・テイは100歳を迎えた。
米寿を過ぎた頃から、それまで決して語らなかった自分の生い立ちを、娘に向けてあふれ出るように語りだしたという。子どもの頃のいきいきとした村の生活描写は、かつて日本の村のどこにもあった民俗学的な見事な記録ともなっている。
上州の村に「カミナリの落ちた日に生まれた赤ん坊」は、生後1カ月で、わずかな産着とおむつの包みを添えて母の里から帰されてきた。姑のヤスは、野良仕事はもちろん、機織から家事いっさい、見事なほどによくできた。「どう見習ってもあんなふうに出来ない、これ以上はムリだ」といって、母は里から戻らなかったという。
テイはそれから「おっ母さん」と一度も会ったことはない。本の中にも母の名前は出てこない。
祖母のヤスは孫のために、もらい乳に村のあちこちを回る。やがて寺崎家に後妻がやってくる。だが、嫁に来る条件はテイを養女に出すことだった。
養女にいった先での「もう五つなんだから」と水汲みや台所仕事にこき使われるテイを、父親は見るに見かねて、学校を出たら外に出すことを条件に家に連れて帰る。テイはやっと懐かしい祖母のもとに戻ってきた。
そして足利女学校を卒業。16歳でひとり東京へ。働きながら夜学に通い、現・新渡戸文化学園を卒業する。YWCAに勤め、そこでSCM(Social Christian Movement)に傾倒する、のちに夫となる男性と知り合う。
そうして5人の子どもを育てて、明治、大正、昭和を生きたテイの人生に100年の時が流れた。それからの寺崎家の後日談もまた、読んでいて、なかなかに味わい深い。
あっ、テイと同じ子がいる。「60年前の女の子」。女の子の名は、みどりちゃん。私の父方の従姉妹の生い立ちと同じだと思って、ハッと胸をつかれた。彼女もまた、生後50日で母は里から戻らなかった。テイの祖母ヤスと同じく、彼女の祖母も、なんでもできる、気丈な姑だった。嫁姑の折り合いがつかず、母は子をおいて、自分の道を選んだのだった。
やがて彼女は高卒後、熊本から大阪へ就職。結婚後は夫のDVに苦しみつつ、ようやく離別し、やがて夫とは死別した。熊本で女1人、さまざまな仕事について働き続け、2人の息子を育ててきた。
ある日、ODAの公共工事で、アルジェリアにいる息子から急に電話がかかってきた。「母さんに住んでもらいたい家を、ネットで見つけたんだ。どうかな?」と言ってきたという。
ちょうど熊本に帰省中だった私は「よくわからないから手伝って」と彼女に頼まれ、相談に乗る。それから彼女の代理で、アルジェリアと熊本の不動産屋と私の住む京都と、何度もメールをやりとりして交渉にあたる。「この家に住みたい」という彼女と一緒に、無事、古い小さな家の売買契約に立ち会った。
紅梅がにおう、日当たりのいい庭を眺めて、彼女もやっと穏やかな日々を迎えている。熊本で、ひとりでいる私の母を、仕事の合間に、ときどき訪ねてくれているのも、うれしい。
ひとの一生、女の人生、いろいろあるけど、死ぬときはみんな同じ。帳尻はあっている。
なんだか世の中、危うい方向に向かいそうな今、どうやら覚悟が必要な時代がやってきそうだ。私の人生、100歳まで、あと何十年? 時の移り変わりをちゃんと見据えて、「わたしの物語」を紡いでいきたいなと思う。
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