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発達障害の子どもを「被害者」にしない 秋月ななみ

2014.01.22 Wed

      発達障害かもしれない子供と育つということ。15

自閉っ子のための道徳入門

著者/訳者:社会の中で生きる子どもを育む会

出版社:花風社( 2012-06-01 )

定価:¥ 1,728

Amazon価格:¥ 1,728

単行本 ( ページ )

ISBN-10 : 4907725841

ISBN-13 : 9784907725846

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『自閉っ子のための道徳入門』(社会の中で生きる子どもを育む会編、花風社)の優ままさんの話は、今回でいちおう最後にしたいと思う。ウィングによると自閉症は、社会性(対人関係)の障害、言語・コミュニケーションの障害、想像力の障害とそれにもとづく行動の障害の3つの特徴を持つという(いわゆるウィングの3つ組)。しかし生活で具体的に困ることを具体的にいえば、ひとつは「自分と他人の区別がつかないこと」であるし、もうひとつは「何事も被害的に認知する」ということである。これは発達障害者の近くにいる多くの人が、深く頷くことだと思う。しかし、ウィングによる定義やそれを引用して語られる事例は、どちらかというと「発達障害者自身が困ること」であり、広めやすい。しかし後者の具体的な事象は、「発達障害者が『困らせること』」なので、なかなか表だって言いにくい。しかし本当に成人後、発達障害者が「困る」のは、本人が周囲を「困らせる」ことによって、自分自身が嫌われたり、職を失ったりすることで、それ自体が、つまりは「困る」ことに繋がるのである。

優ままさんのケースでは、子どもの優くんが、何もかもを「被害的」に認知するようになったのは、「ありのままを受け入れる」という教育法の指導だったと言う。

「お子さんは外で問題児とケンカしてきて、自分は悪くないという思考をどんどん毎日強めていくし、それに対してお医者さんはわけがあってやっていることだから理解してあげなさい、と言って、お母さんとしては叱るのはやめて……」

言い方は悪いが、想像力やコミュニケーションの能力に問題がある発達障害者は、間違った状況の認知をしやすい。それは「自分は悪くないのに(相手の立場が分からないし、社会的なルールも理解していないから)」という思いであり、その結果、「相手や社会が全部悪い」という認知に直結し、行動しやすいのだ(「アスペルガー」という呼び名が陰口として機能するのは、発達障害のこういう側面から来ているのではないかと思う)。そして嫌なことを忘れにくい、という(記憶力がよいという)特性がある。フラッシュバックもある。「一方的によくわからない理由で逆恨みして、復讐する」という事件が起こるのはそういうメカニズムなのではないかと推察される。優ままさんは言う。

「怖くなっちゃって。こちらから見るとうちの子が先にちょっかい出しているんですが、息子の中では誤学習してるから、みんながいじめるとか、外に出るときは闘う準備しなければいけないとか、そういう認識になっていったんですね。例えば何か自分の邪魔になる音を立てたりする人がいると、この人は自分に向かって攻撃というか、悪意を向けているんだ、という認識をするようになってしまったんです。世の中みんな敵、みたいになっちゃって」

自分の行動が引き起こす結果はわからず、相手の反応に悪意を読み込むと結果としてはそうなる。

状況の認知が少し他人とずれ、見当違いな人に対して悪意を募らせる人もいる。とある人に、「うちの身内に発達障害らしき人がいるからわかるよ。他人の気持ちや状況をきちんと理解できないから、とりあえず『嫌なこと(耳の痛い忠告や、本人のためを思って教えてくれること)』を言う人は、短絡的に『嫌な人』だとか、『自分を嫌ってるから』と解釈しちゃうんだよ」と言われてハッとした。まさにその通りである。

娘も、先生がちょっと注意したり、場合によっては助けてくれたときですら、「叱られた」と言い募る。私に対しても、「どうして問題が起こったか」をきちんと優しく話している(つもりの)ときですら、「もう怒られるの、嫌なんだけど」という調子。そして夫も、全くそうだった。そして一度「嫌な人」と認定し、相手の立場が弱いと計算すると、全力で嫌がらせをする(発達障害者ももちろん人間であるから、純粋な部分ばかりではなく、損得勘定を考える。私の元夫は、自分が執着した場合の損得勘定の計算に関してはむしろ驚異的だった。しかし自分が執着していない部分では頓珍漢で、ものすごく損な行動もしているので、驚くほどアンバランスである)。元夫が犯罪者にならないかと怯えているのは、こういった特性があるからだ。元夫自身はどうでもいいし、私ももう関係ないと思っているが、娘の生物学的な父親と言う点で、巻き込まれたら気の毒だと思うのである。

私が時には発達障害者にとってネガティブな側面をあえて書いているのは、発達障害者を差別したいからではない。以下の優ままさんの発言に言い尽くされている。

「医療者と親とギャップがありますよね。将来法に問われるようなことになっても、医者って別に関係なくいられるけど、親はたとえば損害賠償一緒に払ったりだとか、刑務所に入るようなことになったら大変だしというような、運命共同体の度合いが違いますよね。支援者は代わりに懲役行きません」。

そうなのだ。その通りなのだ。子どもの将来を真剣に考えるからこそ、間違った方向に行かないようにと、心配になるのである。障害をただただそのまま受容することでは、この社会では生きていけないと、私は思うのである。「普通」の人ですら、社会で生きる努力をしているのである。「障害」のある人が、「障害」を理由に、社会のルールに関係なく生きていけるとはとても思えない。ある意味で(あくまでもある意味であるが)、「普通」の人以上に努力することが求められるのではないだろうか。

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シリーズ「発達障害かもしれない子どもと育つということ。」は、毎月15日にアップ予定です。

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タグ:発達障害 / 子育て・教育 / 秋月ななみ