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できないことを受け入れる 秋月ななみ
2014.05.15 Thu
発達障がいかも知れない子どもと育つということ。18
新学期が始まってから、とても疲れている。疲れの原因は進級で新しい環境に進んだということもあるが、しかしもうひとつは、娘自身が大きくなってきたからでもある。
小さなときであったら「子どもらしい」と許されてきたことが、「子ども」という言い訳が効かなくなってきたということがひとつ。「もう×歳なのに、こういうこともできないの?」という眼差しが親子ともどもややきつい。
娘も娘なりに成長してきて、できることも増えてきたのだが、「できる」ようになればなるほど、周囲からの「それならこれぐらいもできるはず」というハードルもまた確実に上がってきているようにも感じる。
なによりも今年度は療育のクラスが能力に配慮して決められたようで、娘はそのなかではやや落ちこぼれ気味である。それを見ているのがとてもつらい。正直に言うと「なんでこんなことができないんだろう」という疑問を抑えることがなかなか難しい。挨拶をするとか、他人の眼を見て話すとか、そんなことがそれほど難しいものだろうか、それさえできれば本当にだいぶ娘の苦痛も減るだろうに、と思いつつも、実際にはそれを練習すること自体も娘にとっては同等の苦痛なのである。
娘もつらかろうと憶測して、つらくなる。それと同時に、自分の心のなかを覗き込めばおそらく、「自分の娘がこんな簡単なこともできない」という事実を受け入れがたいのかもしれない。「もう少し頑張ればできるはず(なのになんでできないんだろう)」とつい考える気持ちを抑えることができないのかもしれない。それは本当に自分勝手なエゴなのだけれど。
先日、障害をもつお友達と出かけた。そこで驚いたことは、目を離したらパッといなくなってしまうことは同じだとしても、周囲の眼差しはそう厳しいものではないということである。「ちゃんと躾けたら?」、「もっと落ち着きがないと困るわよ」と、言われてもどうしようもないことを直接言われ、非難の眼差しを受けがちな娘の場合とは違って、「できない」ことが明らかな場合、他人はそれほど厳しい目を向けないのだなぁと思った。それと同時に、一見「普通」に見える娘の、こだわりや場面の転換の力の弱さは、相当なものなのだということを、改めて感じた。
子どもに対する過大な期待を下げつつ、娘の現状を受け入れること。簡単なことであるはずなのに、なぜ自分には難しいのか。改めて反省させられる春の日々である。
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シリーズ「発達障害かもしれない子どもと育つということ。」は、毎月15日にアップ予定です。
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