エッセイ

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佐世保市同級生殺人事件に想う 秋月ななみ

2014.08.15 Fri

               発達障害かもしれない子どもと育つということ。21

 

 佐世保で高校1年生の少女が、同級生を殺害するという事件が起こった。その動機が、「ネコを複数回解剖しているうち、人でもやってみたくなった」(「中学から殺人に興味」 容疑少女、ネコ解剖で衝動? 佐世保・同級生殺害西日本新聞2014年8月5日)というのだから、やりきれなくなる。少なからぬ人が指摘しているが、私もおそらく彼女には(アメリカの精神医学会の診断基準のDMS-5の改定で削除されたカテゴリーなので、おそらく使われないかもしれないが)アスペルガー症候群や広汎性発達障害、もしくは改定に合わせて自閉症スペクトラムといった、何らかの発達障害であるという診断がつく可能性は高いと思う。「頭が良すぎて特殊な子」(<高1同級生殺害>逮捕の少女1人暮らし 校長「ただ驚き」毎日新聞 2014年7月28日)という同じ高校に通う娘がいるという女性による談話の報道などを見ても、それが示唆されているように感じる。ただ報道自体が発達障害に誘導するように行われているという可能性も否定できないので、いまは素人の勝手な憶測はできるだけ控えたいとは思う(注)。

 

 驚くのは、加害者やその家族についての情報がネットには詳細に出回っていることである。加害者の父が地元の名士であり、加害者も多彩な才能をもっていたことから、そもそもネット上に多くの情報や写真が掲載されていたという事情もある。マスコミで報道される内容とネットの情報の落差は大きく、週刊誌に掲載された後追いの目線入りの写真を見て、「ネットで拡散されていた写真と同一なので、ネットの情報はやはり正しいのか」と確認するという始末である。しかし加害者は16歳であり、本来であれば氏名を含め保護されるべき対象である。疑問を感じざるを得ない。その一方で個人情報保護法以降、きちんとした専門家による鑑定書などの情報が表に出されにくくなっている。とくに2006年に奈良県で起きた奈良自宅放火母子3人殺人事件で、供述調書を「漏らした」鑑定医が、秘密漏示容疑で逮捕された事件から(長男の鑑定医を逮捕 奈良秘密漏示事件 産経新聞2007年10月14日 )、その傾向は強まっているという。

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昨年出版された岡江晃による『宅間守 精神鑑定書 精神医療と刑事司法のはざまで』は、数万部売り上げたという。広汎性発達障害のどこかに位置づくだろうという附属池田小連続殺傷事件の加害者の成育歴については考えさせられることも多く、このような情報こそが公開されて欲しいと思う。

 

 実はこの文章は事件直後にここまで書いたあと、辛くなって放置していた。そのあいだに加害者に発達障害の可能性があることは報道でも指摘されはじめた。また人格障害という予測もある。いずれにせよ焦点が、加害者の行動が家庭環境に由来するものなのか、加害者の生まれもっての性質なのかの、安易な二択の原因探しになっていることには、違和感を覚えざるを得ない。

 

 とくにネットで目立つ少年法をさらに「改正」しろという声、そして「なぜ強制的に入院させなかったのか」という声には、胸が痛む。もしもこういった犯罪が「生まれつき」の特質で、環境が無関係であるなら、少年法を変えたところで抑止力にはなるまい(「死刑になりたかった」と犯罪の動機を語る宅間守死刑囚のような場合もあるのだから)。入院させるべきだったという声は、結果的には加害者が病院にいたら物理的にこの悲劇的な事件を起こすことはできなかったという意味では、理解できる。確かにそうだろう。なんとかこの事件を防げなかったのかと思う。

 

しかし、問題を起こしそうな思春期の子どもを、事件を起こさないように、予防的、強制的に精神病院に閉じ込めて投薬「治療」すべきだという意見には、賛成はできない(発達障害なら投薬は無意味であり、有害ですらある)。大人の意見を聞かない、反抗的な子どもに「異常」というレッテルを張って、精神病院に監禁すべきだというのは、保護者の責任の放棄、子どもの人権侵害に結びつかないか。大いに危惧を覚える。大人の誰かがきちんとこの加害者にむきあっていれば、この事件は防げたのではないかという気持ちにならざるを得ない。

 

 さて自分の子育てだが、この事件によって、少々気が重くなっている。従来、発達障害と犯罪の関係については、統計的にも加害者は男性が多いとされている。気付かれている発達障害もそもそも男児のほうが多い。だからこそ、同じ佐世保の小学生同級生殺害事件は、「発達障害の女児によるはじめての犯行」として、注目を浴びたのである。しかしあたり前だが、女児だからといってボタンの掛け違いがおこらないとは断言できないのだなぁと改めて思っている。加害者が発達障害であってもなくても。

 

 この事件の少し前、娘がビニール袋に蟻の死骸を一匹いれてきて、心底ギョッとした。「こうしたらよく観察できるから」という娘に、「蟻さんだって、生きているんだよ」。「命あるものを無駄に粗末にしてはいけない」とかなりの時間、話して聞かせた。ところが授業参観にわかったことは、先生は「生徒たちはよく、蟻の行進を踏み潰してるんですよねぇ」と、あまり疑問をもっていない様子。

 

 知り合いに、「ねぇ、どう思う? やっぱり蟻くらいなら殺しちゃダメだとかいわなくていいのかな? 確かにゴキブリとかハエとか、困る害虫は殺すけどさ、それって意味のない殺生じゃないじゃない? 蟻を殺しているうちに、猫とか殺すようになって、最後には人間を殺してみようとか思ったら困るじゃない?」と聞いてみたら、大爆笑された。「子どもって多少は残酷なもんじゃない。なんでそんなに考え過ぎるの?」。

 

 やっぱり考え過ぎか、と思いながらも、いつもいつも考えすぎざるを得ない状況に心が重くなる。こちらは大真面目なのだ。正直に言えば、娘が、娘の父親みたいに、他人に迷惑を掛けても平気な人間になったらどうしようという不安につねに苛まれている。実際、しばしば娘に同じような迷惑行動を見つけ出したときには、心臓が凍りそうになるのだ。普通だったら気にも留めないようなレベルのことだけれども。

 

娘は前夫とは全然違う、気持ちは優しいし、娘なりに思いやりも示せる。ちゃんと療育もしているのだから、大丈夫、大丈夫と自分を宥め、また、娘が反社会的な人間になるんじゃないかと心配するなんて、そのこと自体娘に申し訳ない、親としてどうなのだろうと自責の念に駆られる。いずれにせよ子育ては、多くの責任が伴うものである。親だからといって、子どもがやったことの責任をいくつになっても、すべてかぶるべきだとまでは思わない。しかし少なくとも、子どもに対して向きあわなくてはならないという責任からは、一生逃れられない。

 

(注)例えば精神科医の斎藤環は、加害者の中学校の卒業文集にある「この人生の幕引きに笑ってお辞儀ができたなら、僕はきっと幸せです」といった文章をあげ、文章が豊かな読書経験に裏打ちされていること、他者への視線や共感性が存在していることなどから、発達障害ではないのではないかと予測している(『週刊文春』2014年8月14日・21日 夏の特大号)。個人的にはどこかで見たようなフレーズの切り貼りがむしろ発達障害を連想させるが、素人意見である。鑑定を待ちたい。なお加害者は、精神鑑定を行うため、鑑定留置先の医療施設に移送された(佐世保高1殺害、同級生少女を鑑定留置先に移送 読売新聞 2014年08月11日http://www.yomiuri.co.jp/national/20140811-OYT1T50087.html)。

 

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シリーズ「発達障害かもしれない子どもと育つということ。」は、毎月15日にアップ予定です。

 

シリーズをまとめて読むには、こちらからどうぞ

 

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カテゴリー:発達障害かも知れない子供と育つということ / 連続エッセイ

タグ:発達障害 / 子育て・教育 / 秋月ななみ

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