2014.08.20 Wed
夏休み、熊本に里帰りして阿蘇山をぐるっとまわった。
90歳から4歳まで母と叔母と娘親子と私の女5人で車に乗って。市内から1時間ほどで着く火の山・阿蘇は大きくて、広い。
まずは絵本画家・葉祥明の阿蘇高原美術館へ。扉を開ければ雄大な山なみにジェイクの丘が続く。葉祥明の絵本の世界そのままに。さわやかな風に近くで鶯の声が聞こえる。カワラナデシコにアゲハチョウが飛んできた。
阿蘇パノラマラインを15分、火口近い草千里に着く。日差しはきついが、肌はさらさら、汗もかかない。
娘と孫は馬に乗る。「わあー、たかーい」とびっくりした様子。パッカパッカと広い草原を往復する。
早めに宿に着き、真正面に根子岳を眺めて露天風呂でゆったりと湯浴みする。
翌日も晴れ。ブルーベリー摘みと、らくのうマザーズ阿蘇ミルク牧場へ。いっぱい摘んだブルーベリーは持ち帰って早速、ジャムとジュースとスムージーになった。
ミルク牧場で乳しぼりを体験した孫は、乳房に触って「あったかーい」とにこにこ顔。牛もずいぶん我慢づよいと感心する。
昭和22年、中国・北京から帰国した父は、戦前、ニュージーランドで学んだ農業技術を生かして大阪南部の淡輪で農場を開いた。牛や馬を育て、羊毛をハサミで刈るのがうまかった。私も動物に餌をやり、乳しぼりを手伝う。毎朝、濃厚なヤギの乳を飲み、できたてのバターやチーズを食べて丸々と太った。そこには「旧満州」帰りのおじさんやおばさんたちもいて、満天の星の下、私をドラム缶のお風呂に入れてくれた。その農場も今はゴルフ場になっている。
帰りは阿蘇外輪山の南を走る。熊本と宮崎の県境の峠をぐるぐるまわって旧・清和村(現・山都町)へ。江戸後期、淡路の人形浄瑠璃を受け継いだという清和文楽は、今も村人たちが農作業のかたわら継承している。
清和文楽がギリシャ公演。今年7月、小泉八雲没後110年を記念して八雲の生誕地ギリシャのレフカダ島で文楽を公演。出し物は「雪おんな」。最後におんなの顔が鬼の形相にくるりと変わるところが大ウケだったとか。
さらに走るとアーチ型の石造橋・通潤橋が見えてくる。高さ30メートルの橋の上から青々とした棚田が見える。江戸後期、石工たちが火の山の恵みの石を組んだ橋は、今なお現役で働いている。石工技術の伝来は欧州系とも中国系ともいわれるが、どちらの説かは定かでない。
好天と涼しさに恵まれた数日。下界に降りればまた真夏に逆戻り、灼熱地獄だ。
叔母の家は西南戦争の頃に建った古い古い町家。クーラーもなく夜は蚊帳で寝る。中庭のガラス戸を開け放し、そよそよと風が流れるとはいえ、でも暑い。
孫は古風な家が珍しいのか、階段を登ったり降りたり、奥の干し棚まで何度も行き来する。「となりのトトロ」のめいちゃんみたいに。
古い長持ちから出てきたというセピア色の写真を見せてくれた。「明治42年撮影」とある。当時、アメリカのシアトルに移住した親戚に送った写真のようだ。
昭和25年、戦争未亡人の伯母と独身の叔母が二人で小さな洋裁店を開いた。お祝いにアメリカからシンガーミシン3台とファッション雑誌が送られてきた。ミシンは今も健在だ。
小学生の夏休み、母と里帰りすると、いつもワンピースを縫ってくれた。暑いさなかの仮縫いに「じっとしてなさい」と怒られ、ピンがチクチクと痛かったことを思い出す。でもできあがると、うれしい。
この夏、叔母は同じく私の孫のために仮縫いし、そのミシンでワンピースを仕立ててくれた。
もう1枚、写真があった。私の祖父の見合い写真だ。カンカン帽をかぶって斜に構え、裏書に「この夏は暑さ六分に四分(渋)団扇」とある。祝言は自宅で芸者をあげ、三日三晩、宴会が続いたという。その後、祖父は放蕩が過ぎて身上を潰してしまったけれど。その祖父も88歳まで生きた。
「肥後もっこす」のとおり、母と叔母は頑固で、今の不便な暮らしがいいらしい。「京都においで」といっても、まだ無理か。まあまあ元気でいてくれるのを、ありがたいと思うことにしよう。
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