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映画評:幸せのありか 河野貴代美

2014.11.09 Sun

『幸せのありか』メインタイトル:幸せのありか
監督:マチェイ・ピェブシツア
主演男優:ダヴィッド・オグロドニク(マテウシューー子ども時代 カミル・トチカ)
主演女優:ドロタ・コラク(マテウシュの母)、カタジナ・ザヴァツカ(看護師)
2013/ポーランド映画 107分
コピーライト表記:(c)Trmway Sp.z.o.o Instytucja Filmowa “Silesia Film”,

2014年12月13日から岩波ホールにて上映

脳性まひに知的障害も疑われ意思の疎通を欠く一人の青年が、やがて自分の意思を伝える機会を見出し、人々との出会いを通して成長していく姿を描いた映画である、と要約すればだいたい言い尽くす。
もちろん出会う人々やそのさまざまなチャンスが内容の豊富さをもたらしているのは当然だが。
それにしても、これに涙と感動と奇蹟の、といった感想文言を付け加えればよくある映画=物語である。 、、、、と、実は評者も思っていた。見なくてもだいたいわかっているなあ、とか。
主人公、マテウシュをいたわる家族や、長じての他者との関わりを通してマテウシュがけなげに生きていく感動(あまりのも典型的な表現!)もさることながら、単純にいえばとてもおもしろかったのである。

『幸せのありか』サブ2おもしろい?よくある(はずの)映画なのに?

全体は小さな章立てで区切られ、章ごとにタイトルがつき(たとえば、パパは魔法使いなど)、知的障害者であるはずのこの青年の独白が流れる。
父は急死し、母はおとろえ、生長した彼をいささかもてあまし気味になった家族は精神病院に入所させてしまう。相変わらず意思疎通を欠き苛立つ彼はそこにやってくる看護師には、乳房の大小によってAランクとかこれはDとかつける。
青年である彼に性的興味があるのは当然だが、マテウシュはなかなかユーモアのセンスの持ち主。

で、評者のおもしろさという大雑把な表現を分節化すれば、結論は障害者およびその家族の映画として極端に「特殊化」されていないことの興味深さである。特殊化され、どんなに大変か、が加われば、典型的な、涙と感動のといった表現が手頃になる。
障害当事者や家族の「大変さ」を否定したいわけではないが、それでは家族員が「五体満足」の家族は「特殊」ではなく「普通」なのか。
そうなのだろうか。

昨今、「普通」の家族が表面はともかく、すでに内部で「崩壊している」実態はよくみられる。この具体例の一つひとつを挙げられないが、マスメディアを賑わす事件を思い起こせばよい。

シングルマザーの家庭が貧困に苦しみ、子どもに十分な食事が与えられないことはどうだろうか。
これはこれで大変である。大変どころか喫緊の問題であろう。
そのシングルマザーと障害当事者(家族)の大変さの比較などできないはずである。
大変さにおいてはおなじようなものであろうと思うから。

さらにもう一つの例を挙げよう。過日テレビがステップファミリー(再婚によって実子でない子どものいる家庭)における子育ての困難さを論じていた。では実親・実子家庭での子育てが簡単であろうか。
児童虐待はその家族の中でさえ起きている。

つまりこの映画のさわやかさや興味深さは、障害者やその家族を極端に「特殊化」していないところにあると思う。
私たち日本人は、カテゴリー分けと役割が好きだ。人群をカテゴリーで見たり(障害者とか)、社会的役割(課長とか先生とか)で受け止め、それでもってその中にいる人や、その役割を担っている人たちをわかったような気になっている。
そのスタンスが、逆に「特殊化」をうむし、そのように大雑把にくくった方が人の理解において容易であるからだろう。
もちろんシングルマザーの例のように特殊化して、セイフティ・ネットを張ったほうがよい場合はあるが。

障害者をすぐに施設に閉じ込めないように、と主張したくなるし、それも大事だが、この映画のおもしろさとさわやかさが、単なる涙と奇跡と感動というありきたりの表現を越えて、人は平等であるという理念に近づいていることを評者は主張したい。

それにしてもマテウシュを演じたD・オグロドニクの演技のすばらしさは驚嘆に値する。

批評が長くて映画の詳細な内容に触れられなかった。だから必見の要あり言わせていただいて終わろう。

カテゴリー:新作映画評・エッセイ

タグ:貧困・福祉 / くらし・生活 / 河野貴代美 / ポーランド映画 / 障がい者