エッセイ

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女の人生にとっての「もしも」(ドラマの中の働く女たち・15) 中谷文美

2014.12.25 Thu

『さよなら私』
放映:2014年10月~12月、NHK
脚本:岡田惠和、主演:永作博美、石田ゆり子
公式サイト:http://www.nhk.or.jp/drama10/sayonara/html_sayonara_midokoro.html

sayonara watashi 1 歴史に「もしも(If)」はないと言うけれど、人の人生もそれは同じ。過去を振り返って「あの時こうしていたら今頃は…」と別の自分を思い浮かべてみる瞬間は、誰にでもあるだろう。でも、ほんとうに別の自分になって、別の人生を生きることになったとしたら?ドラマの中とはいえ、その究極の体験を可能にするしかけが「入れ替わり」である。

 高校の同窓会で久しぶりに再会した星野友美(永作博美)と早川薫(石田ゆり子)はともに41歳。薫は独身のまま、映画プロデューサーとしてのキャリアを重ねてきた。友美は結婚して一児の母となり、専業主婦として満ち足りた生活を送っている。母子家庭で育ち、クラスでも孤立しがちだった薫と、家は裕福だが、厳しい母との間に確執を抱えていた友美は高校時代に親友となり、互いをかけがえのない存在とした。だが親密さゆえに対立することも多く、もうひとりの同級生、三上春子(佐藤仁美)がふたりの仲を取り持つ緩衝材的な存在だった。

 最近は疎遠になっていた3人だが、春子が夫の転勤で東京に戻ってきたのを機に再び集まるようになる。しかし薫がうっかり洩らした言葉から、友美は自分の夫の洋介(藤木直人)と薫が関係を持っているのではないかと疑い、間もなくその疑いが事実であったことを知る。友美が薫を呼び出してそのことを問いつめた時、もみ合いになった勢いでふたりは誤って高い石段から転落し、意識を取り戻すと、ふたりの心と身体が入れ替わっていた。

 友美の家族にも親友の春子にも真実を隠したまま、ふたりは互いの日常を生きることを決意する。薫は友美として5歳の息子、健人(髙橋 來)を命がけで守ること、友美は薫が必死で働き、築いたキャリアを守ることを誓った。友美の指示ノートに従って、野菜たっぷりの手をかけた朝食を家族のために用意させられる薫は、「朝から豪華すぎ。どんだけ頑張るんだよ」と毒づき、奔放な性格の薫を演じなければならない友美は、職場で部下たちに厳しい顔を見せようと努力する。さらに、妻と入れ替わっているとは夢にも思わずに自分(身体は薫)のもとに通って来る夫を、友美は複雑な思いで受け入れる。専業主婦として二児を育ててきた春子もまた、夫の不倫に気づき、離婚を考え始める。

 そんな時、友美の身体に乳がんが進行していることがわかった。入れ替わった心がこのまま元に戻らなければ、友美となっている薫が死を迎えることになる…。

 ストーリーだけ書くとあまりに突飛な設定であるが、「入れ替わり」もの自体は、かの有名な映画『転校生』(監督:大林宣彦、1982年)以来、映画でもテレビドラマでも珍しくなくなった。母と娘、父と娘、同級生の男の子と女の子などいろいろなパターンがある中、まったくの他人である女性ふたりが入れ替わる設定としては、『夫のカノジョ』(2013年10月~12月、TBS、主演:川口春奈、鈴木砂羽、原作:垣谷美雨)というドラマが放映されたばかりである。

 このドラマでは、夫の浮気相手と誤解した若い派遣社員の女性、星見(川口春奈)と入れ替わってしまった専業主婦の菱子(鈴木砂羽)が、部下として夫の職場に通うことになり、料理好きの主婦としての経験を活かした活躍を見せる。他方、単刀直入に言いたいことを言う性格の星見は、会長とその取り巻きに牛耳られていたPTAでも自由奔放にふるまい、そのウラのない率直な言動がママ友たちの信頼を得ていく。浮気騒動の誤解(夫は星見が正社員に昇格するための試験勉強を手伝っていただけ)が解けた末にふたりは元に戻るのだが、全編ドタバタながら、年代と立場の異なる女性がそれぞれ相手の生活の中に、これまでとは違う発想やふるまいを持ち込むことで、周囲の新たな反応を引き出し、問題解決にも結びつくといった新鮮味が強調されていた。

sayonara watashi 4

 『さよなら私』の方は、他人ではあっても、もともと深い絆を結んでいたふたりが互いに「相手になる」ことを通じて、今まで以上にその絆の深さを確認し、同時に自分自身への理解も深めるというプロセスがドラマの核心となっている。その意味では、単なる役割交換が描かれているわけではない。だが、別々の道を選んだ同年代の女性(とくに同級生)が互いを意識しつつ、人生のある地点で自らの選択を振り返るという、これまたよくあるストーリーに引き付けて考えると、その主題をつきつめた先の一つの答えのようにも思える。

 たとえば専業主婦だった友美は、「少し仕事、面白くなってきてるんじゃないの」と薫に指摘されると、「勘違いしないでね。専業主婦が働く女性にみんなコンプレックスを持ってると思ってるでしょ」「だいたいね、専業主婦とか母とかにね、偏見がありすぎるのよ、世間は。…子ども生んだとたんにさ、やさしくなった、母の顔になったとか言われてさ。冗談じゃない。努力してるんだよ、こっちは」と言い募る。ただ、大切にしてきた自分の家族を奪われたように感じる一方で、友美は(自分を薫と思い込んでいる)夫との新しい関係や薫の職場での仕事にも実は充実感を覚え始めている。他方、かつて流産した経験を持つ薫は、「現場行きたい、脚本読みたい」と自分が力を注いできた仕事に未練を残しながらも、しだいに健人を心から慈しむようになる。つまり、母になっていくのである。

 その後、友美(となっている薫)が余命宣告を受けたことと、春子の夫が愛人と暮らすために家を出たことをきっかけに、友美、薫、春子の3人はそれぞれの家族とともに一つ屋根の下で暮らし始める。同じ脚本家の作品である『最後から二番目の恋』『続・最後から二番目の恋』(2作目は本エッセイ第13回で紹介)でも、主人公の男性の職場の部下が弟の妻になったり、結婚して専業主婦になっている妹や隣に越してきた独身子無しのキャリア女性が連日朝ごはんを食べに来たりと、奇妙なつながりの男女が疑似家族のような、温かく遠慮のない関係を形成していく様子が描かれていた。そうした奇妙な共同生活の風景を垣間見ると、「キャリアウーマン」「不倫相手」「献身的な妻」「よき母」といろいろなレッテルを貼られた女性たちの間の「分断」が、たいして意味のないもののように思えてくる。

 女性たちの人生には、たぶん多くの男性以上に、たくさんの「もしも」がつまっている。もしも親の反対を押し切って違う進路を選んでいたら、あの人と結婚していたら、結婚しなかったら、子どもを産んでいたら、このタイミングで子どもが生まれていなかったら、仕事を辞めずに続けていたら、仕事を辞めて家庭に入っていたら――。もちろん現実の女性たちは、突然誰かと入れ替わったりしないし、そう簡単に他人と疑似家族を築いたりもしない。しかし、どんな選択にも意味はあるし、その選択をやり直すことが仮にできないとしても、ほかの選択をしたほかの女性と寄り添うことで、自分にも新しい可能性が開けてくるのでは?と思わせてくれるドラマだった。

 ちなみに、この『さよなら私』も『夫のカノジョ』も視聴率は非常に低かったらしい。絶対に失敗しないスーパー外科医(しかも女性)と「入れ替わり」のファンタジー度数は同じくらいのような気もするが。

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 「ドラマの中の働く女たち」は毎月25日に掲載の予定です。これまでの記事はこちらからどうぞ。








カテゴリー:ドラマの中の働く女たち

タグ:仕事・雇用 / ドラマ / 働く女性 / 中谷文美