エッセイ

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使い手の顔が見えるもの作り(ドラマの中の働く女たち・19) 中谷文美

2015.04.28 Tue

『繕い裁つ人』
監督:三島有紀子、主演:中谷美紀
原作コミックス:池辺葵(『繕い裁つ人』講談社、2011~2015年)
配給:ギャガ
2015年/日本/104分
公式サイト:tsukuroi.gaga.ne.jp

tsukuroi tasu hito

今年の春クールのドラマはまだ始まって間もないので、今回は久しぶりに映画を取り上げてみる。この映画、仕立て職人の女性が主人公、ということはわかっていたのだが、「裁つ」はともかくとして、なぜ「繕い」なんだろうなと思いながら観た。

 主人公の南市江(中谷美紀)は、坂の上の古い洋館に母の広江(余貴美子)と暮らしながら、「南洋裁店」という小さな看板を掲げて仕事をしている。店に出入りする顧客たちは、先代の祖母から引き継いだ近隣の人々で、注文の多くは祖母が仕立てた服の「お直し」である。わずかな数の新作も作り、知人の牧葵(片桐はいり)の店だけに置いているが、それは即日完売状態。そんな彼女の服に惚れ込んだ大手百貨店のバイヤー、藤井(三浦貴大)は市江を訪ね、ブランド化の企画を持ちかけるが、すげなく断られてしまう。

 それでも諦めきれない藤井は、南洋裁店に日参する。仕事場に置かれているのは、年代もののミシンと使い込まれた道具、そして祖母が遺したデザイン帳。そこには顧客一人ひとりのサイズやライフイベントまでが細かく記されていた。年を重ねていく顧客の体型の変化に合わせてサイズ直しを毎年のようにしたり、母親の大事にしていたワンピースを高校生の娘にも似合うように仕立て直したり、幼い娘に破かれたという服を繕ったり…。「洋裁以外はなんにもできないんだから」と母に言われる市江の、地味で丁寧な仕事ぶりに藤井は共感するようになる。だがその一方で、「二代目の仕事は一代目の仕事をまっとうすることだと思っています」と頑ななまでに祖母の作品にこだわる姿に、「単に挑戦することが怖いだけじゃないですか」と迫る。市江自身もほんとうは自分がデザインしたオリジナル服が作りたいはずだ、という思いからだった。

 対する市江は、揺れ動く気持ちを抑えつつ、今まで通りの仕事を続けようとするが、ある出来事がきっかけで、若い世代の女の子たちのオーダーメイドを手がける決意をする。「私に作らせてください、一生着続けられる服を」と言って…。

 この映画を一緒に見た友人とは、「服の寿命」ってなんだろう、という話や「お仕立て服」というものがまだ身近にあった頃の話で盛り上がった。思い出してみれば、私が小さい頃着ていた服は、ほとんどが祖母の手作りだった。祖母は職人ではなかったが、洋裁学校に通った経験があるため、街のウインドウで見かけた子供服が気に入ると、生地を探し、型紙から作って、ミシンを踏んでくれた。そういう祖母の「新作」を着て小学校に登校する日は、いつも晴れがましい気持ちだった。当時の祖母は自分の服を作ることもあったが、とっておきの「よそいき」だけは洋裁店で仕立ててもらっていた。そういう特別な服で装った祖母と連れ立って出かけるときは、やはり特別な感じがした。そんな記憶を持っているのは私の世代が最後だろうか。

 一時期ネットソーイングに凝っていた母が私の息子のために帽子やパジャマを手作りしてくれた時も、量販店で買ったほうがこじゃれていてしかも安くつくのに、と思ってしまうのが今の状況である。もはや服は一生ものどころか、1シーズンしかもたないこともある。たとえば、ストレッチがきいて着心地のいい服の生地に必ず使われるポリウレタンという素材は、着用や洗濯回数に関係なく劣化が進むため、数年しか寿命がないことがあらかじめ想定されている。だが同時に、私たちは破れたり小さくなったりして「着られなくなった」服ではなく、さまざまな理由で「着なくなった」服をいとも簡単に手放してしまう。この映画の原作コミックにもさりげなく出てくるように、服を袋ごとゴミに出してしまったりもする。その意味では、一着の上等な服を繕い仕立て直して着続けるような服と人の関係は、ありえないとまでは言えなくても、そうとうな時代錯誤に見える。

 そもそも誰でも知っているようなブランドの量販店で売られている服は、遠く離れた国や地域の縫製工場で作られている。そこで働く職人(その多くは若い女性)たちは、自分たちが日夜ミシンを踏んで生み出す製品が、どこでどんなふうに使われるのか想像するすべを持たない。そしておそらくほとんどの場合、自分の工場で作る服を彼女たち自身が身につけることはない。だが、そんなふうに作り手と使い手が大きく隔てられていることがあたりまえの現代社会において、あえて顔の見える距離でもの作りをすること、あるいはそうして作られたものを手に入れて使うことは、私たちの憧れでもある。逆に言えば、作り手と使い手が遠く隔たった状況で作られ運ばれてきた量産品はあっさり捨ててしまえても、作り手の顔が浮かぶような作品なら、そうはいかないかもしれない。

 藤井からブランド化の誘いを受けた市江は、「着る人の顔が見えない洋服なんて、つくれないわ」と言って断った。たしかに市江が祖母から引き継いだ顧客は、近所に住み、家族ぐるみのつきあいがある人たちばかりである。おまけに「とっておきの一着」をまとう機会を作るために、先代が始めた「夜会」という行事も続けている。市江が向き合っているのは、先代が作った服、というモノだけではない。その服を慈しみ、体型が変わっても容色が衰えても着続けたいと願う顧客一人ひとりなのだ。たしかな技術とセンスを新しいものの創造や自己表現のためにではなく、すでにあるものを使い続けてもらうために惜しみなく発揮すること――つまり、「繕い」続けることが市江の仕事の真髄である。ただ、その世界から一歩を踏み出して、過去に生まれた服ではなく、これからを生きる人に装ってもらうための服作りを始めるとき、彼女は職人として新たな境地を開くことになる。

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カテゴリー:ドラマの中の働く女たち

タグ:働く女性 / 中谷文美 / 仕事 雇用