エッセイ

views

3196

ひとはなぜ、戦争をするのか?(旅は道草・65) やぎみね

2015.06.20 Sat

 パリに住む女友だちが、いつもいっていた。
 「あたし、怒ってるのよ!」(Je suis en colèreかな?)。人と人との関係がもつれたとき、誤解や曲解をされたとき、「あたし、あなたに怒ってるのよ」と相手と向き合い、話し合ってきたという。そうすれば絡んだ糸もほどけ、互いにホンネをいって仲直りして、そのあと、いい友人になるという。それがフランスに一人、40年近く住む日本人の生き方の流儀なんだと。そういえばこの前、BSテレビで岸恵子も同じことをいってたっけ。

 1972年9月、日中国交正常化共同声明が出される前夜、周恩来と田中角栄の交渉が行き詰まったとき、毛沢東が「もうケンカは済みましたか? ケンカをしないと仲良くなりませんよ」と笑って二人に語りかけたという。

 言葉による、暴力によらない、心をつなぐ双方の率直な関係。決してそれを忘れたくはない。

 パリの女友だちに聞いてみた。「なぜ、ひとは戦争をするの? 血を流しあい、死が待っているというのに」
 「そんなの決まってるじゃない。Establishmentを求めるからよ」。

 社会的に確立した体制・制度、支配階級。エスタブリッシュメント間の抗争は政治。そこに暴力が結びつけば戦争となる。そしてそれは「男性原理」というべきか。

 若桑みどり著『戦争とジェンダー』を読んだ。胸にストンと落ちる言葉ばかりだった。副題に「戦争を起こす男性同盟と平和を創るジェンダー理論」とある。2004年初版。残念なことに著者はもう亡くなられたが、10年を経て、いまも新しい。

アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.

 映画「トロイ」は「戦争で死ぬ若者への賛歌」という著者は、戦争政治学や戦争文化の原型をつくったのはギリシャだと断定する。古代ギリシャの昔から戦争を美化する思想は教育、芸術、映画などあらゆるプロパガンダを駆使して人々を鼓舞してきた。美術史家の若桑さんは絵画や彫刻を例にとり、そのことを見事に可視化してくれる。

 紀元前5000年も昔、マルタ島の巨石遺跡を築いた母系制の古代民族間に争いはなかったという。地中海の真ん中・マルタを訪ねて、ふくよかな下半身でどっしりと大地を支える豊穣の女神像を見たとき、生命と性愛が尊ばれ、「男女の性の自由」があった古代世界を見るような思いがした。

 やがて歴史は進化(?)し、近代化や資本主義化が進むにつれ、「家父長制」による「女性支配」はますます強固なものになっていく。

 プラトンやホッブスを引き、ルソーもマルクスも批判的に解釈する。その根拠となる理論に「うん、うん」と頷きながら、他方、ハンナ・アーレントの「政治の目的は自由であること」という言葉や、『暴力批判論』(1918年)を書いたヴァルター・ベンヤミンの「たがいに依拠しあっている法と暴力を、つまり究極的には国家暴力を廃止するときこそ、新しい歴史的時代が創出される」という予言に、ホッとする思いで読み進んだ。

 戦争とレイプの相関について、「国家権力+植民地支配+家父長的な価値観にもとづく性差別+人種差別」こそ、慰安婦問題の本質であると著者は的確に見抜く。

 最後に「『戦争への男女共同参画』として憲法修正条項が提起されないとは断言できない。このことを断じて憲法改悪とともに阻止することが、私がこの本を書く主旨の一つである」と結ぶ。まさに今、それが行われようとしているではないか。

 この10日間、熊本から1年ぶりに90代の母と80代の叔母が京都にやってきた。二人とも戦争を潜ってきた世代。亡くなった伯母は大正時代を生きたので戦争には批判的だったが、母と叔母は、しっかりと「軍国少女」として育った。

 少々認知症がある母は、同じ質問を何度も繰り返す。「今日は幼稚園にいくの?」「うん、いくよ」と孫も飽きずに何度も答える。喜怒哀楽の感情は最後まで残るのか、もともと勝気な母は「いやなことはイヤ」とはっきりという。子どもの頃、いじめられても、いじめられていることに気づかず、ボーッとしていた私などより、よっぽど主体性があるなと感心する。

hana shobu en

 亀岡の湯の花温泉と、ちょうど見頃の花菖蒲を見に植物園へつれていく。やっと説得して車椅子に乗せ、ゆっくりと散策。「あーら、らくちんね」と喜んでくれた。脊柱管狭窄症で痛みがある叔母をつれて漢方内科医院へ。診察のあと、先生は熊本の漢方医を紹介してくださった。

 滞在中、二人は寸暇を惜しんで、旬の真竹を炊き、高野豆腐を煮て、甘夏のマーマレードをいっぱいつくってくれた。そして孫のために夏のワンピースの仮縫いを済ませて無事、帰途についた。

 私も70年も生きてくると、戦後のエポックメイキングな出来事と自分の個人史が重なってくる。あるときは右傾化反対のデモにいき、あるときは時代の風潮に流されて楽な道を選んできたり。思い返せば反省ばかりの歳月だ。

 アジア諸国にとって今の日本は「未完の戦後」。戦後はなお終わっていない。もっといえば「戦後は戦前である」というべきか。

 一つの戦争が終われば次の戦争を準備してきたアメリカと、それに追随する日本。憲法9条ゆえに、70年という戦争をしなかった長い年月をかけて、いま政府は粛々と「戦争」を準備している。

 もう一度、はっきりと言おう。「あたし、怒っているのよ!」と。

 「旅は道草」は毎月20日に掲載の予定です。これまでの記事は、こちらからどうぞ。








カテゴリー:旅は道草

タグ:憲法・平和 / 戦争 / 反戦 / 平和運動 / やぎみね