エッセイ

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シュプレヒコールはラップに乗って(旅は道草・66) やぎみね

2015.07.20 Mon

世の中はいつも 変わっているから
頑固者だけが 悲しい思いをする

変わらないものを 何かにたとえて
その度崩れちゃ そいつのせいにする

*シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
変わらない夢を 流れに求めて
時の流れを止めて 変わらない夢を
見たがる者たちと 戦うため

世の中は とても 臆病な猫だから
他愛のない嘘を いつもついている

包帯のような嘘を 見破ることで
学者は世間を 見たような気になる

*リフレイン
(「世情」作詩・作曲 中島みゆき)

SEALDs

 6月21日午後、京都・四条河原町を歩いていたら八坂神社の方からデモの一団がやってきた。ビラを配る女子学生に「入ってもいい?」と声をかけると「どうぞ、どうぞ」と肩を軽くポンと叩かれた。久しぶりのデモ。まわりは若い人たちばかり。SEALDsのデモだった。

 先頭の街宣車から流れるシュプレヒコールは、まるでラップのよう。
 民主主義ってなんだ/なんだ。I say 憲法 You say 守れ、平和を守れ。戦争立法絶対反対

 60年は「安保ハンタイ、岸を倒せ」。65年は「日韓条約ゼッタイハンタイ」。

 80年はドラマ「3年B組金八先生」の校内暴力に荒れる学校で、警察に連行される生徒に重ねて中島みゆきのシュプレヒコールの歌が流れた。

 2015年のシュプレヒコールは若者たちが自分の言葉でリズミカルにコールする。

 歩道をいく若いカップルも、とまどいながらデモの若者に共感のまなざしを投げかける。デモの内と外と、それほど意識の差はみられない。

SEALDsは言う。
 忘れないで。あの日、君が「関係ないよ」と言ったことが、誰かを殺してしまうかもしれない、ということを。

 5秒だけ想像してみて。もし自分が戦場に行くことになったら?って。戦場に行くのは偉そうに吠えている政治家じゃない。僕や君みたいな若い世代なんだ。

Students Emergency Action for Liberal Democracy-sのうねりが全国に広がっている。

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 池田浩士著『ヴァイマル憲法とヒトラー 戦後民主主義からファシズムへ』(岩波現代全書 6月18日刊)を読んだ。この新刊、まさに今の日本を映しだすタイトルだ。

 著者は私のあこがれの人だった。社会科学系の本ばかり読んでいた私に文学の深い意味を教えてくれた人。

「なぜ人びとはヴァイマル民主主義を棄ててヒトラーを支持するようになったのか?」。ヴァイマル憲法の限界と可能性、ヒトラーの政治戦略、そして「日本のいま」との類似性を語る。

 ファシズムとは「結束」「束縛」に由来する言葉、それに加えて「魅惑」「魅了」を意味する語とも関連しているという。

 1933年1月30日、ナチ党が第一党となり、ヒトラー政権発足。この日をヒトラーは「国民決起」の日と呼ぶ。同年3月23日、「全権委任法」強行可決、翌日施行となる。

 国会の掣肘を受けることなく公示の翌日から施行される法律を自由に作ることができる仕組み、それは閣議決定ですべて決めていく安倍政権と同じではないか。

 その前夜、1919年1月15日、ドイツ革命の混乱の後、ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトが反革命義勇軍団(フライコール)の手で惨殺された。

 ヴァイマル憲法第48条「安寧の秩序の破壊に際しての処置」、いわゆる大統領緊急命令条項が、「基本的人権」さえも否定する可能性を孕んでいたこと。また第118条「思想の自由、検閲」の例外規定で映画を検閲可とする限界をもっていたこと。人権を守るための法規に例外規定を設けてはならないと著者は言う。ただ第113条「異なる言語の民衆たち」では、言語的少数者が、異なる思想や生活習慣をもつ他者として配慮され、保障されるべきだとする条文に、今なおその実現を待つ人権条項として、かすかな希望を見出そうとする。

 戦争とは、戦争のため以外に存在理由のない軍隊が、「自発的に生きよう」とすることを人間から奪い、生き方を自ら決めるという、人としてあたりまえの行為を決して認めないものであること。

 それは、考えることを失い、見ること、感じることを奪われた、カフカの『小さな寓話』の「立ち止まることを忘れ、走り続けるネズミ」の比喩のように、現代のファシズムの行き着く先を暗示する。

 2012年「シャトーブリアンからの手紙」でナチス時代を描いたフォルカー・シュレンドルフ監督は、同年「ハンナ・アーレント」を撮ったマルガレーテ・フォン・トロッタ監督の、かつての夫だったことを、この本で初めて知る。彼女もまたアイヒマン裁判を通して「考えないこと」による「悪の凡庸さ」と「無思考性」が招く人間の絶望を見事に描いたのだ。

 ナチズムの残虐と共に生きながら「起こっていたことを知らないことにしよう」と試みた国民は、感じることをやめたために考えることも失っていったという。

 ではどうすればいい? 立ち止まり、見て、感じて考える、その感性をもつこと、それはひとりではできない、共にある「他者」を必要とすると著者は結ぶ。

 そしてもう一冊、別れた元夫から新刊が届いた。八木晃介著『親鸞 往還廻向の社会学』(批評社 6月25日刊)。相変わらず難解な本だ。それにしても2冊とも分厚くて定価が高い。

 もしも親鸞が現在の「濁悪世」を生きていれば、との思いで筆をとったという。

 「濁悪末世」を生きる親鸞が「よきひとの仰せをかぶりて信ずることのほかに別の子細なきなり」と法然を思い定めたように、やがて被差別の民衆こそが親鸞にとって「重要な意味ある他者」となっていく、その関係のモードのつくりかえが丹念にしるされている。

 自分が自分であることを知るためには、あるべき「関係他者」の媒介を必要とするということかなと、読み終えて、ふっと思った。

 日本国憲法第12条は「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」と明言している。そのあとに続く「濫用の禁止」と「公共の福祉のために」のくだりはいらないんだけど。

 安保関連法案強行採決の攻防のさなか、「いま、このとき」、若い彼ら彼女らに、ささやかなバトンを渡したいとの思いで、闘いの輪の後列を、ともに歩いていきたいと思う。

 「旅は道草」は毎月20日に掲載予定です。これまでの記事は、こちらからどうぞ。








カテゴリー:旅は道草

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