エッセイ

views

3576

北京秋天(旅は道草・68) やぎみね

2015.09.20 Sun


アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.

 北京秋天。北京の秋の空はどこまでも青く、高い。

 中薗英助『北京飯店旧館にて』(筑摩書房 1992年)の書き出しは「視野をとつぜんよぎったものは、秋の北京の光線であった。蒼穹がはじけ散って、空の色よりももっと透明なツルギが、つづけざまに何十本も、目にもとまらぬ危うさで網膜をかすめて交叉し、流れ去ってゆくかのような驚きがあった。その驚きのあとの快い空虚さを、最後に味わってから、もう40年以上もの歳月がすぎていたのだ」とある。

 敗戦によって、日中戦争から太平洋戦争にかけての8年間を一居留民として暮らした中国を追われた著者が、1946年、引揚帰国して、1987年に北京再訪。「なぜか静心もて中国には帰りにくい」思いを背景に「老北京」(ラオペイチン)の思い出と現在の中国を行き来する、複雑で豊かな「時」を描く作品。

 戦前、北京に生まれ、母の大病のため、わずか半年後に日本に帰ってきた私。それから50年近くたった1991年秋、初めての北京を訪れた。

 空港に降り立つとキーンと冷たい空気が肌を刺す。市内まで30キロ。どこまでもまっすぐな並木道を車で飛ばす。見渡すかぎりの広大な放牧地が左右に広がっていた。

 天安門事件から2年後の北京は上海よりちょっと田舎風で、自転車の大波が大通りを走り抜けていく。ドンゴロスの麻袋いっぱいに何が入っているのだろう、男たちが重そうに肩に担いでギュウギュウに混むバスに無理やり乗り込んできた。

  天安門

天安門

 母に描いてもらった地図を片手に王府井(ワンフーチン)近く、東単(トンタン)大街のあたりをうろうろ。このあたりにあった在留邦人向けの同仁病院で私は生まれたらしい。目印に「北京神社」の近くと書いてくれたが、そんな植民地時代の遺物なんて、とっくの昔に消えてなくなっている。
 「戦前」「戦後」というのは日本人の言い方、中国では「解放以前」「解放以後」というらしい。

 泊まったホテルに日本人は誰もいない。入口でスーッと近づいてきたチャイナ服の老人が、鋭い目をして「リーベンレン」(日本人)とボソッとつぶやいた。
 ガランとした広い部屋のテーブルには消火器のような赤い魔法瓶が一つおいてあるだけ。

 土塀に囲まれた中庭に明るい陽が差しこむ胡同(フートン)に住んでいたと聞いて、それらしい古い民家を探す。通りがかりの人に尋ねても「プーチィダオ」(知らない)とそっけない。今はもうそんな胡同もなくなってしまったんだろうな。

 母は中薗英助と同世代。同じころ北京に住んでいたから、もしかしたらどこかの街角ですれ違ったかもしれない。母は昭和17年、女学校卒業と同時に18歳で結婚。日中合弁会社で農業技術者として働く父のもとに、大陸へ渡る。
 弁髪のチャイナ服を着た男性が家に中国語を教えにきてくれたという。今でも四声の「媽麻馬罵(マーマーマーマー)」だけは上手に言える。

 母は私の出産を前に大病を患い、母子ともに満鉄に揺られ、関釜連絡船で海を渡って、ようやく熊本に帰ってきた。薬も何もない戦後を生き延びて今年9月、92歳になった。今も元気だ。

 中国はその後、淪陥(被占領)・内戦・解放・文革・改革開放そして天安門事件を経て、今や、習近平が描く「一帯一路」、陸のシルクロードと海のシルクロードの道を邁進している。
 中国はこの先、どこへいくのだろう?

 9月4日、朝日新聞朝刊「耕論・日中のこれから」に認定NPO法人「緑の地球ネットワーク」副代表の高見邦雄さんのインタビューが載っていた。
 中国・黄土高原の山西省大同でマツやナラの木を何万本も植える緑化運動に協力して23年。広大な土地に多様な人々が住む中国。「途方もなく魅力的な中国人はいます」という。私もそう思う。

 高見さんとの出会いは宝塚にあった毛沢東思想学院に大塚有章氏の講演を聞きにいったのがきっかけ。1977年、義母の看病に東京から京都に移り、看護に明け暮れていた私。ある日、一冊の本と出会う。大塚有章著『未完の旅路』全6巻(三一新書)。

 まるで映画のよう、ドラマチックな物語が中国の大地をバックに繰り広げられる。息をのむ思いで読み進んだ。

 大塚有章氏は戦前、共産党に入党時、M資金銀行強奪事件で逮捕、満期10年の服役後、戦中、甘粕大尉のもと満映協会に勤務。戦後、帰国を断り、八路軍と行動を共にする。1956年に帰国後は日本の若い人々に毛沢東の大衆路線を伝えようと毛沢東思想学院を開いて日中友好運動に尽力する。姉の秀は河上肇夫人、妹の八重は末川博夫人、妻・英子の遠縁に難波大助がいた。

 「この人にお会いしたい」と宝塚へ、小学生の娘をつれて講演会に出かけたのが1978年の秋。京大の井上清氏が「実事求是」(事実に基づいて物事の真相、真理を求めたずねる)を語り、大塚有章氏は「大衆路線」のお話をされた。その1年後、大塚有章氏は亡くなられた。82歳だった。

円山音楽堂 9月13日

円山音楽堂 9月13日

 「戦争法案」絶対反対!のうねりの中、強引に採決を急ぐ安倍政権。国会攻防のヤマ場、9月12日、「戦争への道を許さない京都・おんなの集い」に福島みずほさんを迎える。翌13日、「やめよう!戦争法」(円山音楽堂)に4700人が集う。長いデモの波、若い人々の後をゆっくりと歩いた。

 「戦争はウソと捏造から始まる」。安倍は「抑止力」を楯に中国を「仮想敵国」とみなす。断じて中国はそんな国ではない。日本と中国は経済的にも運命共同体なのだ。

 悠久の国・中国は広くて大きい、多様な人々が住む国。途方もなく魅力的な中国人がいっぱいいる。そんな人たちとつながっていきたい。

 いつの日か、生まれた北京に住んでみたい。
 「北京秋天」、北京の秋に、あの突き抜けるような青い空が戻ってきたらいいなあと思いながら。

 9月17日、参院特別委員会で怒号のなか、「戦争法案」強行可決。国会の外は「違憲!」「廃案!」の嵐。いいえ、諦めてなんかいられないわ。闘いはこれから。

 「旅は道草」は毎月20日に掲載予定です。これまでの記事はこちらからどうぞ。








カテゴリー:旅は道草

タグ: / 政治 / 中国 / やぎみね