2012.02.03 Fri
1991年8月に金学順(キム・ハクスン)さん始め、かつて「慰安婦」とされた女性たちが自ら声を上げ始めた。それ以前にも、戦後日本社会のそこかしこで「慰安婦」の存在は、大きな声でではないが語られていた。兵士たちの証言、時に美化された「慰安婦」との想い出など。
たとえば、『総員玉砕せよ!』の「あとがき」で、「ぼくは戦記物をかくとわけのわからない怒りがこみ上げて来て仕方がない。多分戦死者の霊がそうさせるのではないかと思う」と書いた水木しげるも、自らの体験をもとに、慰安所の様子を克明に記している(同書: 14-15頁)。そこでは、慰安所(といっても、掘っ立て小屋のようなもの)の前の長い行列を見て「一人三十秒だぞ」と叫ぶ兵士や、「ねえちゃんあと七十人位だがまんしてけれ」という兵士が描かれている。当時の日本軍がいかに最前線にまで慰安所を設置していたかのを示す、貴重な歴史的証言である。
これまで日本社会ではひっそりとささやかれ、戦後忘れ去られそうになっていた「慰安婦」の存在は、91年以降その在り方を大きく変えた。つまり、当事者自身が自らの体験を語り始めたのだ。戦後自らの体験を家族にも語ることができず、韓国社会でもタブー視されていた日本軍「慰安婦」制度は、性奴隷制度に他ならなかったことを「慰安婦」にされた女性たち自身が語り始めたのだ。
1992年1月に、ソウル市日本大使館前で、「慰安婦」にされた女性たちとその支援者たちは、お昼休みで人々が行きかう通りでデモを始めた。彼女たちの思いは一つ、過去に自らになされた加害の事実を認め、一人ひとりに日本政府が謝罪することだ。謝罪とは、彼女たちが被った危害を歴史的事実として教育をはじめしっかりと国民に周知・記憶させ、二度と同じ過ちを犯さないように未来に向かって誓うこと、未だ法的には解決されていないことを公式に認めることである。
それから1,000回。20年間もの間、毎水曜日に彼女たちは同じ行動をとり続けた。毎週1,000回だ。2011年12月14日、このデモは1,000回目を迎えた。日本でも同時行動が各地で開催されたが、さまざまな暴言もこの行動に対して向けられた。
大阪では、日本政府でさえ公式文書をもとに「慰安所・慰安婦」の存在を認めているというのに、重い沈黙を破って語りだした勇気ある女性たちに対して、「嘘つき」だと大声で怒鳴るひとびとがいた。その暴言に対して、ある高校生は、「わたしも嘘であってほしいと思います」と応じたという。本当にそうである。「慰安婦」にされた女性たちがもっとも、彼女たちの悲惨な経験が単なる悪夢であったらどんなによかったかと思っているに違いない。
ソウルで1,000回目を迎えたその日、司会のクォン・ヘヒョさんは、「ハルモニたちの願いは、来週は水曜日デモを開催しなくてよくなること」と表現した。
そして、三人の女優たちは、ハルモニたちの想いを、以下の詩に託した。
私たちの話は私たちの頭の中だけに存在する
蹂躙された私たちの体の中にだけ、戦争の時間と
ぽっかり空いた空間の中だけに
どんな公式の記録も、文書も足跡もない
ただ良心だけ、ただそれだけ
私たちが言われたことは
私が彼らについていけば、お父さんを助けられる、
仕事がもらえる、国のために働くことができる
行かなければおまえを殺す、ここよりずっとよいところだ
私たちが発見したこと
そこには山も木も水もなく、
黄砂、砂漠、目に涙がいっぱいの、我慢をしている
数千人の不安に震える少女たち
私のおさげ髪は切り取られ、下着を着る時間もなかった。
私たちがしなければならなかったこと
名前を変えること
ボタンを開けやすいワンピースを着ること
一日に50人の軍人の相手をすること
生理の時も休めず
あまりに多くの男の相手をして歩けなくなったにも関わらず
それでも相手をしなければならなかった
足を伸ばせず、体をかがめることができなくても
それでも相手をしなければならなかった
彼らが私たちに繰り返し行ったことは
暴言を吐き、殴り、血だらけになるほど痛めつけたあげくに
消毒し、注射を打ち、そしてまた殴り、体に数多くの穴を開けたこと
私たちが見たことは
浴室で化学薬品を飲んだ少女
爆弾を受け死んだ少女
銃剣で打ちのめされた少女
壁に頭をぶつけた少女
溺死するほど川に何度も投げ入れられ、栄養失調にかかった少女の体
私たちに許されなかったこと
体を洗うこと、出歩くこと、医師の診察を受けること、
コンドームを使うこと、逃げること、赤子を守ること、
やめてということ
私たちがもらったもの
マラリア、梅毒、淋病、死産、結核、心臓病、全身発作、うつ病
私たちが食べたもの
ご飯、味噌汁、大根の漬物、ご飯、味噌汁、大根の漬物、ご飯、
ご飯、ご飯
私たちがされたこと
破壊され、道具にされ、不妊になり、穴になり、
血だらけになり、肉のかたまりになり、追放され、
沈黙され、一人ぼっちになったこと
私たちに残されたもの
決して消えない衝撃、死んだお父さん、無賃金
多くの傷、男への憎しみ
子どももなく、家もない、ぽっかり空いた子宮
飲んだくれになったこと、罪の意識と羞恥心
何にもない、何にもない
私たちに付けられた名前
慰安婦、堕落した女たち
私たちが感じたこと
私たちの心はいまもなお震えている
私たちが奪われたもの
お金、私の人生
私たちは今74歳、82歳、93歳
目も悪く足取りも遅いが準備はできている
毎週水曜日、日本大使館の前で
もう何も怖くない
私たちが望むこと
今すぐに、私たちの話が消える前に
私たちが死ぬ前に
言え日本政府よ!
慰安婦女性にごめんなさいと
私に言え、私に、私に、私に、私に言え、
ごめんなさいと言え、ごめんなさいと
(訳:カン・ヒデ、文責:岡野八代)
カテゴリー:取材ニュース
タグ:慰安婦