上野研究室

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その気になれば、できるじゃん! ちづこのブログNo.2

2011.04.26 Tue

震災後の東京の変化。地下鉄やJRの駅のエスカレーターが止まり、通行者がもくもくと歩いています。そうなれば、止まったエスカレーターは場所ふさぎなだけ。もともとなくてもよかったんじゃない?

影もできないくらい明るかったコンビニやスーパーも薄暗い。これまでの明るさに慣れた目には違和感があるけれど、べつに買い物に不自由はしません。考えてみれば、最初の頃はコンビニの深夜までこうこうと明るいルクスに、ここまでやるか、と違和感を持ってたはずなのに。いつのまにか慣れてしまっていました。

おうちの節電。これまでひとに言われても身につかなかったけれど、この頃は、要らない電灯はまめに消すようになりました。こういうのってたんなる生活習慣だから、ちょっと気をつけて変えればすみます。

その気になれば。できるじゃん!

それが節電へのわたしの感慨です。

日本の電力供給の原発依存度は30パーセントとか。節電目標3割削減なら、みんなが不便をすこしずつ分かち合えば、達成できるのではないでしょうか。ちなみにフランスは80パーセント、そのうえ、隣国のドイツにまで輸出しているそうな。あなおそろしや。こんなに原発依存を国策として推進してきた国家が、国威にかけて原発事故処理を支援しようとしているのはとうぜんでしょう。フランスの日本支援の善意を疑うわけではありませんが、原発立国を国策とする国家にとっては、それが国益にもかなうからでしょう。

エスカレーターがあるのは移動弱者のため、だとか。でも実際にはベビーカーにも車椅子にもエスカレーターは危険。それならエレベーターを、オンデマンドで使えばよいのです。エレベーターもなかった時代には周囲の人たちに、こう叫んだものでした、「だれか、たすけてぇ」・・・ベビーカーならふたり、車椅子なら4人の人手があれば、なんとかなります。わかちあいとたすけあい、それがあるちょっと不便な社会のほうが、エスカレーターのある便利な社会より、ましじゃないでしょうか。資源配分するなら車椅子とベビーカーのためのエレベーターが先、エスカレーターやましてや動く歩道はいりません。

非常時にはこれまで先送りにしてきた懸案事項がすべてオモテに吹き出します。なぜって、「いまのシステム」がトラブルなくまわっているあいだは、それに対する批判をうけつける余地がないからです。原発事故が起きてからわかったのは、「いまのシステム」をだましだまし使ってきたこと。それが限界を超える事態に直面して、欠陥がすべて露呈したこと、です。欠陥は以前からわかっていた欠陥、でした。だからこそ、専門家たちは、今回の事故に対して、「やっぱり」感をじくじたる思いとともに持つのでしょう。

だれかが言っていたけれど、危機は転機、変化のチャンスです。

供給側でいえば、そもそも電力会社が地域独占の国策会社でよいのか?原発建設コストをすべて電力料金に上積みする料金システムは電力会社に甘すぎないか?そもそも原子力保安院はなぜ経済産業省にあって環境庁にはないのか?なぜ電力供給の多様化に踏み切れないのか? CO2の25%削減を原発クリーンエネルギー説で達成しようとするのは安直すぎないか?小規模発電や再生可能エネルギーの推進をなぜおこたってきたのか?

需要側からいえば、みんないっせいに働いたり遊んだりする必要はあるの?ラッシュアワーやピーク需要ってなんのため?冷房無しでは過ごせない建築をつくってしまったのはどこのだれ?もっと使えって煽ってきた責任は?電力依存がこんなに高まってしまい、電気がなければライフラインがすべてストップしてしまう事態に、消費者は困惑していることでしょう。東電の計画停電、その実、予告なき「無計画停電」は、電力依存度を消費者に思い知らせることで、消費者にペナルティを課す脅迫ではないか、とうたがいたくなります。「原発要らない」なんて、言わせないぞ、と。

今さら、のようだけれど、どの問いをとっても、きのうきょう、出てきた問題ではないことがわかります。

局所最適の合理性が合成の誤謬におちいる市場原理のパニックと同じことが、「統制なき大停電」では起きることが予測されています。危機は予測できる、なぜなら問題はすべて指摘されていたからです。それを想定にいれたうえで、各人が冷静に行動することは、可能です。なぜなら現にできているからです。

その気になれば、できるじゃん!・・・首都圏の通行者の行動をみて、思ったことです。

カテゴリー:ブログ

タグ:脱原発 / 上野千鶴子