2011.05.03 Tue
断捨離ブームだそうです。わたしもあやかりました。
てゆーか、それまでの住まいの半分くらいの広さしかない住居に引っ越したので、否応なしに半減上陸をせざるをえず、思い切って断捨離にはげみました。
ところが断舎離度が足りず、いつまでたっても段ボール箱が積まれたまま。空けようにも収納するスペースがないので、空けられないのです。もしやこのまま、段ボール箱と一緒に暮らすことになるのではないか、1年後にも同じ状態が続いているのではないか、と心配になります。それというのも、今回の引っ越しで、東大に赴任してから18年間、空けたことのないままの段ボール箱がいくつかみつかったからです。18年、なしで過ごしたということは、無くてもすんだ、ということ。こういうときにはフタを空けずにそのまま処分したほうがよいよ、というアドバイスを受けました。くさいものにフタ、の気分です。
断捨離の対象になったのはおびただしいファイル類です。結局半分は捨てることになりましたが、そのなかに個人ファイルがありました。あいうえお順に500人分以上はあったでしょうか。
整理していて感慨を覚えたことのひとつは、そのなかに物故者がすくなからずいたことです。18年も経つと、生きていたひとも死ぬのか・・・と時間の経過を感じました。それ以上コンテンツが増える可能性のない個人ファイルを前に、さあどうするか。そのなかには、故人からの自筆の手紙や手稿などが含まれています。思い切って捨てるか、それともわたしにとってよりもっと故人の遺品が貴重であろうご遺族にお届けするか・・・しばらく迷って、ご遺族にお送りするのはやめにしました。あとで親しい友人にその話をしたら、こう言われました。
「やめといてよかったわよ。母が亡くなったとき、母のお友だちから、母が送った手紙の束が送られてきたの。もう用がない、と言われているみたいで哀しかった。持っててほしかったわ。」
遺族の心情って、こういうもののようですね。送らなくてよかった。
もうひとつ、今回の断捨離で学んだことがあります。
情報にはフローとストックがあります。さらにストックのなかにはデッドストック(死蔵品)というものがあります。ストックもフローになる可能性がないなら、結局不要品。18年開かずの段ボール箱がそうでした。
断捨離に際して発見したのは、フロー情報をストックとまちがえたことでした。新聞はフロー情報の典型です。何十年間も新聞をためこんで積み上げているひとはいません。その代わり、切り抜きをするひとはいます。わたしも一時切り抜きをしていました。今度の断捨利でも、昔々の黄ばんだ切り抜き張が出てきましたが、読み返したことはありません。再利用しない切り抜きはデッドストックも同じ。なんのためにこんなものをためこんだんでしょうねえ。斎藤孝さんは切り抜きのすすめを言っておられますが、つくった切り抜き、ほんとに再利用してるひとはいるのかしら。今ではありがたいことに新聞データベースで検索できますから、もう切り抜きなんぞつくる必要はなくなりましたが。
そのほかに上野研究室にはおびただしい量のミニコミ、ニュースレター、雑誌、報告書、会議のプログラム等々がたまっていました。思い切って捨てると、半分に減りました。こんなに多くのゴミと暮らしていたのか、とびっくりするほどの分量でした。
すぐに読む余裕がないからあとで時間ができたときに、ととっておいた雑誌の山。そのうち何かの役に立つかもしれないから、と保管しておいたミニコミのファイル群。そのとき時間がなければ、あとになっても時間はできません。結局寝たきりになるだけ。そうなれば死蔵品です。現在も、将来にわたっても読む可能性のない情報は、すべてデッドストック。フロー情報をストックにする前に、フローはフローのまま処分していけばよい、と気がつきました。できるだけフローをストック化しないこと。これが経験から得た教訓です。
本はほんらいストック情報です。だからこそ捨てられないのですが、最近は読み捨てのフロー情報のような本が増えました。自分で出した本のなかにもそんなたぐいの本があるのじゃないかと思うと冷や汗ものです。
本のなかでも、二度とふたたび読む可能性がない、と思うものはフロー情報です。わたしの場合は小説がそれに当たります。わたしは文学研究者ではなく、ただの文学愛好者なので、いちどプロットのわかった小説は、二度読むことはまずありません。推理小説やSFもそうですね。そのなかでも捨てたものと捨てなかったものが。え、どの本が断捨離されたかですって?こわくて言えません(笑)。
マンガもそうですが、マンガについてはうまい方法を考えつきました。知り合いにプロのマンガ研究者がいます。彼女の推薦するマンガを借りて読み、読んだら返す・・・これで情報のストック化を防いでいます。そのうえプロのスクリーニングを経ていますから、アタリハズレがありません。時間資源が希少なので、エンタメ系の読書で時にハズレにあたると、怒りがわくからです。
情報のフローとストックの境界をきっちり管理する・・・これを日頃からやっておくとゴミの山に囲まれて暮らす必要がなくなります。いえ、なにしろスペースが少なくなったので、ゴミの山と同居する余裕がなくなったのです。
とはいえ、捨てるに捨てられないものも手元に残りました。
こんなとき、思いだすのは『資料日本ウーマンリブ史』全3巻を刊行した3人の編者たち(溝口明代・三木草子・佐伯洋子編、松香堂ウィメンズブックストア、1992-95年)。段ボール箱に数箱分のちらし、ミニコミ、ビラの類を、たびかさなる引っ越しのたびに捨てないで持ち歩いたという執念の産物。将来きっと価値が出るだろうと確信していた、と彼女たちは言います。
ちらし、ミニコミ、ビラの類はフロー情報の最たるもの。それを捨てずにとっておいた3人の編者の執念があったからこそ、わたしたちは今日日本のウーマンリブのなまの資料に接することができます。
それを思うと、情報を断捨離する手が止まります。
こうやってわたしの断捨離はハンパなままに終わりました、ああ。
カテゴリー:ブログ