2011.06.07 Tue
映画「八日目の蝉」を見ました。原作も読みました。
アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.角田光代さんには『対岸の彼女』を読んで以来、関心を持ってきました。『対岸の彼女』は、わたしの『女ぎらい』のなかにも出てきます。山のように積み上げてあるベストセラーには、ふつう手を出さないようにしてきたのだけれど、つい読みたくなって通りすがりの書店で買いました。手近にあるのはありがたいことです。
もし配給会社からキャッチを依頼されたら…という想定で、以下のようなコピーを考えてみました。いえ、それより、書物にも映像にも、こういうことばを触発するちからがみなぎっていたからです。で、そのうちいくつかを。Twitterで紹介してしまったけれど、ブログでも。(一粒で二度おいしい、かな?)
「ひとは産んで母になるのではない、育てて母になる。」
「たしかに愛されたという記憶があれば、ひとは生きていける。」
「子別れがいつかきっと来るとわかれば、子育ての一日一日はこんなにもいとおしい。」
「最後のシーンでそれまでかたくなだった井上真央の表情が、くずれてほどける。その変化が、圧巻だ。」
誘拐された子どもが成人してからを演じている井上真央だけでなく、誘拐犯を演じた永作博美も、一途な女の切迫した思いをよく出していました。ラストは原作とちがっていたけれど、映像作品は映像作品なりに、原作とはちがった完成度を持っていました。映像が原作に拮抗する稀有な例でしょう。
「男なしでも女は産み、育てる。この無用の者たちよ、いつになったら目覚めるのか、と嘆いたリブの女はだれだったか。半世紀、かれらは変わらない。」
最後の「リブの女」は、だれだか、実はわたしは知っています。
出典をあたってみたら、少しちがっていました。引用します。
「1人で妊娠し、1人で出産し、1人で育てたのだ、と、そう言う安心を欲しいとも思った。…ほとんどすべての家庭は母子家庭だ。男はカネ以外では家の中では何の役にも立たない。最も自立しえぬ者ども、いつになった気がつくのか。」
1975年に書かれた深見史さんの「産の中間総括」(『現代子育て考』所収)、この文章は、『新編 日本のフェミニズム』1巻『リブとフェミニズム』(岩波書店、2009年、138頁)に採録されています。
70年代初めに書かれたこの文章が、少しも古びていないことがかえってショックです。
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