2012.01.01 Sun
(昨年中にアップする予定だったブログが年を越しました。新年からこんな話題ですが・・・)
わたくしは死んではいけないわたくしが死ぬときあなたがほんたうに死ぬ 永田和宏
今年は知人・友人の訃報を聞くことが多い年でした。
冒頭に挙げた歌は、今年亡くなった歌人、河野裕子さんの遺された夫、永田和宏さんの絶唱です。妻に先立たれたら、生きてゆく意欲を喪う男性が多いのに対して、永田さんはかえって生きねば、と決意します。死んだ妻を自分の記憶のなかで生かすために。神の存在も信じず、魂が死後も生きのびるなどともはや思えなくなった世俗の時代を生きるわたしたちにふさわしい、鎮魂の歌だと感じました。なぜなら死者は生き残った者の記憶のなかにしかいないからです。
記憶を持った者が死に絶えたとき、死者はほんとうに死ぬ。わたしもそのように死者を悼んできましたし、できれば自分もそのように悼んでもらいたい。墓碑や記念碑などいらない、と思ってきました。
死別がつらいのは、記憶ごと死者がわたしの一部分をもぎとってあちらへ行ってしまうからです。そのひとと共有した時間と空間、経験の数々。どのひとともかけがえのない経験を共有していますから、だれかが死んだあとの空洞を他のだれかで埋め合わせることなどできません。
「あのときはねえ・・・」というだけでうなづきあえ、ほほえみあえる相手がいなくなるのですから。
長寿であることの哀しみのひとつは、こうやってうなづきあえる相手をひとり、またひとりと失っていくことのかなしみなのでしょう。だから若い友人をつくっておきなさい、というアドバイスもありますが、失われた記憶を、新しい友人が代わって埋めることは不可能です。
年長の師や先輩が亡くなるのはこの世の道理。先に生まれた者から先に死ぬのが順番だからです。
わたしの年齢になると同世代の訃報を聞くようになります。このブログで紹介した加藤哲夫さんもそのひとりでした。
わけても年若い友人の死はこたえます。新聞で訃報をお知りになった方もいらっしゃるかと思いますが、わたしたちの仲間、竹村和子さんが亡くなられました。享年57歳。ブリリアントな知性と繊細な感受性の持ち主でした。余人を以て替えがたい作品を次々とこの世に送りだしてきたのに、もうこれ以上、彼女のしごとを見ることができないのは痛恨の思いです。何よりこの年齢で世を去らなければならなかった彼女自身が、痛恨の思いだったことでしょう。
もうひとり、ふしぎなご縁で写真集『花想』(セントプリンティング社、2011年)に帯を書くことになった木佐聡希さんも、パーキンソン病で闘病18年の後に今年亡くなられました。享年58歳。木佐さんにわたしを引き合わせてくれたのは、出雲「なごみの里」を運営していた柴田久美子さん。なごみの里も今年は苦難の年を経験しました。
木佐さんは18年前小学校教員だった時に40歳で難病を発症。職を辞して闘病生活に入った彼女に、ご家族がカメラをわたし、それから野の花をファインダーに写すのが彼女のたいせつなしごとになりました。趣味とは言いたくありません。写真が彼女の心象を写し、写真を通じて社会につながり、写真が彼女を支えてきたから、趣味以上のものでした。彼女はそれでカードをつくり、カレンダーをつくり、写真展を催し、そして写真集を出すことになりました。毎年のカレンダーを楽しみに待っていた友人たちもいましたが、10年続けたのち、それができないほど症状が進行して断念しました。写真集の発行は彼女の生存中には間に合いませんでしたが、刊行をたのしみに最後の時を過ごしておられたことと思います。
帯に書いたわたしの文章を引用しましょう。
「病を得たひとの眼には、こんなにも世界はうつくしいのか。
病を得たおかげで、こんなにもえがたい縁が得られるのか。
わたしは何を見落としていたのか…を、木佐さんは痛切に教えてくれる」
病と引き替えに失うものと、得るもの。くらべることはできませんが、木佐さんが得たものを、この写真集を通じて知ることができるような気がします。
大震災の被災者の方々を含めて、すべての死者へ、哀悼の意を示したいと思います。
(注)写真集『花想』ご希望の方は以下へ。まだ残部があるようです。頒価は1890円です。
kisa.hanaomoiあっとまーくgmail.com
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タグ:上野千鶴子