2012.04.16 Mon
友人からこんなメイルが来ました。自称「底辺校の高校教員」です。
今年の卒業生を相手にこんな指導、じゃなくて共同作業を実践した、ちょっといい話です。ご本人の了解を得てご紹介します。
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とりあえずは、長年みてきて、ほぼわかったつもりでいた最底辺の生徒に、新たな現実をみつけて驚いた、というか、私の「想定」を越えていたという話をひとつ。
あまりの就職状況の悪さに呆れて、担任している3年生のクラスで、「30才までに転職の二度や三度はあると覚悟したほうがいい。その時に、求められるのは経験とか資格とか。」(それに「コネ」と言いたかったけれど、彼らの周囲にある「コネ」の質の悪さを経験的に知っていました=ほとんど「下流食い」の世界ですから、言いません)「だから、資格の一つ二つはとった方がいい」と言っていました。
そんなこんなで(事情は省きます)10月から週に一、二度の放課後簿記自主講座が始まりました。商業高校から転学してきた生徒が簿記二級を持っていたので、彼女が先生になって簿記三級受検講座。様子見も兼ねて、私も時々生徒として参加しました。
夜の仕事をやっている生徒が「放課後じゃなくて、ほかの時間にして!」と私に交渉に来ましたので、H(先生役)に言えよ、といいながら、「なんで簿記の資格が欲しいの?」と聞くと、「使わないと思う。でも、面白そうじゃん」と応えました。(あれ?コイツ、面白いこといってる)と。
その後、不思議なことがいくつか起こりました。
ひとケタの分数計算もできず、九九も満足に言えない生徒が、2月までの半年近く、毎回H先生に怒られながら講座に参加し続けました。
文字の本は、教科書以外は買ったことがない生徒が、簿記の本を持ってきて「先生、この本、二回読んじゃったからあげるよ。」と私に渡してくれたこともありました。
教員の間でも、あの赤点だらけの生徒がよく保っている、と声があがったり、「でも、試験問題も満足に読めないから、どうしたって無理でしょ。」と言われたり。Mが簿記の本を貸してきた、という話には、そこにいた教員が「あの生徒、漢字も読めたのか?」とさんざんな言いようでした。
一緒に勉強しながら、つくづく簿記って面白くないなあ、と思っていたのは私。
まあ、試験はなんとかなる、とタカをくくっていたのですが、試験一週間前になって、生徒たちの方がデキるようになって、少し焦りました。
「先生(私)、大丈夫なの?」といたわられたり。生徒から応援メールまで届く状態。
慰められるのだけは勘弁してほしい、と思う一方で、生徒たちに落ちるのがいたら、私が落ちた方がいいかも(笑えるし)とかつまらないことを考えたり。
「やっぱり、なんとかして合格しないと・・・・」
この時期ボーダー上でうろついていた生徒Yが、廊下で私にコツを教えながら言いました。
「だってさ、落ちたら、ずっと教えてくれたHに悪いじゃん。」
あ、そう。
「三級程度じゃ、仕事に使えるかどうかなんてわかんない。けど、落ちたらマズイと思う。」
へえ。そんなこと思ってたんだ。
「M(どうみても落ちそうな男)が必死にやってるのも、それだけだよ。」
気がつけば、彼らは勝手に勉強合宿をしたり、年末年始に集まったり、をしているうちに、目的が変わっていたようです。
結局、受検までこぎつけた生徒は六人とも合格しましたが、それぞれがホッとしただけで、喜んだ風情は一切なし。わかるような、わかんないような。
なんだか、楽しいことが終わっちゃったよね、という虚脱感の方が強かったようです。
後で分かったことですが、受講生同士や「先生」と生徒がカップルになっていたりして、気づいたのは、あれは「お祭り」だったんだな、ということでした。「祭り」の夜には、そういうことがあるもんですし。
それにしても、教員としてわからなかったのが、基礎学力が小学校三年(漢字の読み書きと算数能力でみたら)のはずの生徒が、「お祭り」やら「義理」やらで、それをなんとかしてしまったことです。
不思議なできごとでした。
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メイルはここまで。
「で、あなたは合格したの?」と気になって尋ねたわたしに返ってきたのがこの答です。
「検定は、70点が合格ラインで、いちばん心配だったMクンは76点(本人も驚いてた)、もう一人の危険だったNクンは72点という最低ラインで通りました。私はもっともつまんない点で合格しました。結局は試験慣れしてますから。」
業績達成目標がいつのまにか、ピアの支え合いに変わっている…生きのびていくために必要なのは、資格や業績ではなく、こういう他人への信頼や人つながりであることを彼らは体感したことでしょう。かれ自身もその「なかま」のひとりでした。
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