2012.08.11 Sat
岡野八代2012『フェミニズムの政治学』(みすず書房)の書評が、ようやく文章になりました。「熊日」書評欄に掲載されましたので、ご紹介します。
「非暴力を学ぶ実践」(ちづこのブログNo.25)で、書評シンポでのハンドアウトをご紹介したもの。メモがどんなふうに文章になったか、そのプロセスもごらんください。
編集者がつけたタイトル、「未開地」とは「政治学・政治思想」のことです(笑)。書評誌のpdfをアップしたかったのですが失敗(泣)。
9月には東大で岡野さんを招いて書評シンポが計画されているとか。こちらも期待してくださいね。
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未開地にジェンダー概念持ち込む
書評 岡野八代2012『フェミニズムの政治学』(みすず書房)
久しぶりに密度の濃い読書経験をして、知的興奮を味わった。女性学とは「女の経験」の言語化・理論化の実践だが、その直観を分節するという緻密な作業に耐えて、考え抜かれた書物である。フェミニズムには「個人的なことは政治的である」という命題があった。近代リベラリズムの個人観は、「個人的なことは個人的である」と宣言する。政治は公的なことだから、個人的なことを持ち込むな、と。本書はその前提に果敢に挑戦する。個人的なことはなぜ、いかに、政治的なのか?その理路を解き明かす「政治学」なのである。そして同時に、リベラリズムに対する根深い疑い、なぜリベラリズムとフェミニズムは共闘できないか?リベラリズムとフェミニズムとはどこで分岐するか?という問いにも、答えようとする。
リベラリズムは、公的領域から私的領域を排除することで、公的領域における「自由で自律的な個人」すなわち「主権的主体」を措定する。だがそれこそ、個人が他者への依存なしに生きられないという事実への「忘却の政治」だと、著者は鋭く指摘する。いったい母から生まれなかった者はいるか、そして依存なしに育った者はいるだろうか。「主権的主体」とは「依存者としての自己」「関係のなかにあるアイデンティティー」を忘却することによって成り立ったフィクションにほかならない。そして政治学とはそのようなフィクションによって、ということはつまり、女性の抑圧によって、はじめて成り立った学問なのだ。
女性学の中では、公私二元論のなかで女性に割り当てられた指定席、すなわち私領域の復権や、ケアの倫理の優位性を主張する者たちもいる。だが著者は、正義か善か?権利かニーズか?の二者択一のなかで後者を選ぶといった、二元論の内部の指定席にとどまらない。公私二元論そのものの解体にまで行き着こうとする点で、本書は真にラディカルである。
わけても暴力論は圧巻である。安全保障securityの語源であるse-curusはケア(配慮)のない状態から来ているという。だが、「ケアのない状態」とはまったく非現実的である。子どもや老人や、障がい者が「ケアのある状態」のもとにあるとき、その圧倒的に非対称性な権力関係のもとで、ケアを与える者は、自分の手にある生殺与奪の権力を行使することを抑制してきた。思えば人類史のなかで、どれだけの母親たちがこの権力を行使せずに、すなわち暴力をふるうことなく子どもたちを育ててきたことだろうか。あたりまえに見えることが実は奇跡だと気づかされる。それができるなら、非暴力の世界もまた可能だと希望を持つことができる。同じような生育過程を経ながら、成人までのわずかな期間のあいだに、なぜ一方(男性)は暴力を学び、他方(女性)は非暴力を学ぶのだろうか?ケアとは、非暴力を学ぶ実践であるという発見は、男たちにもケアへの参加を促すだろう。
本書の理論的貢献は、政治学、そして政治思想という未開地にジェンダー概念を持ちこむことで、「公的領域」のジェンダー中立性の神話を崩すことにある。
「主権的主体」もまた「依存者」であるという発見を持ち込むことで、政治学はどう変わるのか?本書に対する男性政治学者たちの反応を聞いてみたい。それとも本書は彼らから無視・黙殺される運命にあるのだろうか。刊行から半年、これだけの力作に書評が出ていないことがその兆候なのだろうか。この書評が最初で最後にならないことを祈りたい。(「熊本日日新聞」2012年7月1日
20120701_熊本日日新聞_読書_岡野八代著「フェミニズムの政治学」)
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