2012.10.18 Thu
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岩波現代文庫「上野千鶴子の仕事」シリーズに二冊の新刊が同時発売となりました。『生き延びるための思想』『ナショナリズムとジェンダー』、いずれも増補新版です。その「自著解題」にあたる「あとがき」をご紹介します。次回は『ナショナリズムとジェンダー 新版』の「あとがき」を。アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.
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『生き延びるための思想 新版』「あとがき」(岩波現代文庫、2012年)
岩波現代文庫から「上野千鶴子の仕事」シリーズの一環として『生き延びるための思想』を増補新版として刊行してもらうことになった。旧版に加えて、「暴力とジェンダー」を巡って考察してきた論考をII部にいくつか収録した。
とりわけIII部に収録した「フェミニズムとナショナリズム」は、旧著『ナショナリズムとジェンダー』を書いたあと、フェミニズムとナショナリズムとの関係について、もういちど徹底的に考え抜いたものである。ほんらいなら、『ナショナリズムとジェンダー』再考、としてそちらの新版に収録してもよい性格のものだが、『生き延びるための思想』そのものが、『ナショナリズムとジェンダー』をさらに根源的に人権や市民権にさかのぼって考察したものだから、こちらの新版に収録した。「市民であること」「国民であること」が、ジェンダーといかなる可能性/不可能性を切り結ぶのか・・・女は「国家」暴力の共犯者になれるのか、なるべきなのかをめぐって検討したものである。
他方、旧版の『生き延びるための思想』に収録してあったいくつかの論文は、同時に発刊される岩波現代文庫版『ナショナリズムとジェンダー 新版』に収録した。主として「慰安婦」問題をめぐって『ナショナリズムとジェンダー』以後を論じたこの数点は、そちらの新版のほうが読者にとって同じ課題を追いやすいと考えたからである。両書『生き延びるための思想 新版』と『ナショナリズムとジェンダー 新版』を併せて読んでいただければうれしい。
加えて、わたしの人生にとってひとつの節目となった東京大学を退職するにあたっての最終講義に代わる公開講演録を収録した。 折しも2011年3月15日に予定されていた大学主催の最終講義は、「3.11」の大震災で中止され、それに代わる講演会を学生・卒業生が7月に開催してくれたものである。
3.11前にすでに予告されていた最終講義のテーマを、わたしは本書と同名の「生き延びるための思想」に変更した。その変更には、「3.11」の衝撃が影響している。その理由は本書のなかに述べられている。わたしは何のためにフェミニズムを、ジェンダー研究を続けてきたのか?…「3.11」はわたしにそれを問い直す大きなきっかけを与えた。
3.11は圧倒的な災厄だった。そのなかでももともと弱者だった者たちが、さらに災害弱者となった。女、高齢者、障害者、子ども、外国人…である。無力な者に強者になれと要求することはできない。無力な者が無力なまま、それでも生き延びていけるためにはどうすればよいのか?…それがわたしの問いのはずだった。男なみになりたいとも、男のような権力がほしいとも、男と同じように原子力ムラに参入したいとも…つまり「男に似たい」とはすこしも思わないのがフェミニズムのはずだった。なぜなら「男に似る」とは、支配者、差別者、抑圧者になることと同じだから。「男に似る」ところに、「女の解放」がないことは自明だから。
そう考えて自分の学問人生のひとつの節目に話した、くりかえしのきかない講演を収録してもらったのはありがたいことだった。そのことによって、本書の旧版の最後に収録した「インタビュー」の位置づけが、わたし自身によってはっきりと自覚されてきたのはおどろきだった。
通常こうした学術書に話し言葉のインタビューを収録するのは異例のことである。それを押してまで収録に踏みきったのは、旧版の本書の位置づけをこのインタビューがメタ言説として的確に説明していると考えたからだった。
2005年、旧版「あとがき」に、わたしはこう書いている。
「このインタビュー記録を蝶番の要として、これでわたしは、次の主題である『ケア』の問題にシフトすることができる。」
多くの読者から、上野は「ジェンダーからケアへとシフトした」と言われた。それをわたし自身がうべなっているかに聞こえるこの発言は、2012年の今日からはこう言いかえることができる…わたしはケアの問題へとシフトしたわけではない、わたしは弱者がいかに生き延びるかについて、考え続けてきたのだ、と。
それが「ケア」の問題というかたちをとる理由が、今ではよくわかる。
女自身が弱者であるかどうかは、わからない。オリンピックの格闘技で日本女性が金メダルをとるような今日、彼女たちを敵にまわしたいと思う者は誰も(男も)いないだろう。だが、女はつねに弱者の傍らにいた。女は子ども、高齢者、病人、障害者…の傍らにいた。女自身が妊婦や産婦ならば、女は最弱者のひとりとなった。なぜなら…女は「ケアする者」だったからだ。女が「ケアする者」でなければ、「女の問題」と呼ばれてきたもののうち、すべてとはいわないが、かなりの部分が解消するであろう。なぜ女だけがケアするのか、ケアとは何か、なぜ家庭のなかで行われるケアは無償なのか?なぜケアの値段はこれほどまでに低いのか?…主婦研究から始まった「不払い労働」論から最新の「ケアの社会学」に至るまで、わたしは一貫して同じ主題を追いかけてきたことがわかる。
ケアする者とケアされる者とのあいだには、圧倒的な非対称性がある。それをおおいかくす言説が「母性愛」や「母子一体感」だ。育児の場合には「愛」や「本能」で隠されるこの非対称性は、介護の場合には隠しようもなくあらわになる。できれば逃げ出したいこのいまいましい責務…「ママ、いつになったら死んでくれるの」と小説家に言わせたケアという関係は 、実の娘にさえ、逃げ出したい重荷としか受けとられない。にもかかわらず、多くの母は子どもを—時には悪魔のように感じながらも—ケアしつづけ、多くの妻や嫁や娘は—まれには虐待しながらも—要介護者を見捨てずに来た。
ほんとうにそうか?
2011年、大阪市で起きた「幼児ふたり置き去り餓死事件」の報道は、大きな衝撃を与えた。だが今度は、メディアは「母性愛の崩壊」とは言わなかった。夫に捨てられ、頼った実家に拒絶され、シングルマザーになって風俗業で暮らしを立てていた若い母親が、つらい現実から逃れたいと思ったとしていったい誰が責めることができるだろうか。自分がネグレクトするだけで相手の命を奪うとわかっていたとしても、裁判で、殺意はなかった、でも「子どもたちがどうなるか、わかっていました」という彼女を、それ以前に彼女と子どもたちをネグレクトしてきたすべての大人たちは、誰も責めることはできない。
この報道が与えた衝撃は、ひるがえって、同じような状況にいながら、その場から逃げなかった者たち、子どもや年寄りや障害児を見捨てずにそこにとどまった者たちがどれほどいたか、そのこと自体が奇跡のような事態だという感慨だった。これまで人類史のなかで、どれほどの母が妻が嫁が娘が、依存せずには生きていけない者の傍らで、そこから立ち去ることを選ばずにきただろうか?そしてまたあまたの幼児虐待や高齢者虐待の報道に接して、これまでいったいどれだけの母や妻や嫁や娘が、圧倒的に依存的な存在に対して、ネグレクトのみならず、虐待や暴力を行使せずにきたのだろうか、と問いを反転させることができる。
自分の手に生殺与奪を左右する権力を握った依存的な存在を目の前にして、その権力を行使せずにいることはむずかしい。なぜなら圧倒的に権力関係が非対称な状況のもとで、その権力を濫用する者があとを絶たないことをわたしたちはよく知っているからだ。セクシュアル・ハラスメント、ドメスティック・バイオレンス、パワー・ハラスメント、モラル・ハラスメント、いじめ、虐待…それらはすべて、自分に反撃するおそれのない、相手がノーを言えず、逃げ出すこともできない状況で起きていることがわかっている。非対称な権力は、わけても圧倒的に非対称な権力は、行使の誘惑から逃れることがむずかしい。だとすれば、同じ状況のもとで、権力を行使せずにいることの方に、努力が必要なはずなのだ。
ケアとは非暴力を学ぶ実践である…この目のさめるような命題に出会ったのは、岡野八代の近刊『フェミニズムの政治学』(みすず書房、2012年)である。
ケアとは、ケアする者とケアされる者とのあいだの、長期にわたる、忍耐のいる相互関係である。そのあいだには圧倒的な非対称性がある。なぜならケアのニーズを第一義的に持つ者は「ケアされる者」であって、ケアされる者はケア関係から退出できないが(退出することは死を意味する)、ケアする者はそこから退出することができるからである(これをネグレクトという)。たとえ道徳的な非難や自責の念が伴っても、ということは、裏返しにいえば、規範や規制を伴わなければ、ひとをケアに縛り付けることはできない、ということでもある。そしてまたこの規範にはおどろくべきジェンダー非対称性があって、女には強制されるが、男には免責されてきた。
女が「ケアする者」であるのは、本能やDNAによるのではない。女が「ケア」を強制的または自発的に引き受けてきたからだ。そしてそれ自体が「奇跡」ではないのか?そしてもし「母性」や「ケアの倫理」というものが、女性のなかにあるとしたら、それも「自然」や「本能」のせいではなく、女のこの歴史的経験がもたらしたものだ。女は長期にわたるケアの実践のなかで、「非暴力」と、さらに言うなら「責任」とを学んできたのだ。そしてもし、(一部の)男性にそれがないとしたら、それはホルモンのせいでもDNAのせいでもなく、彼らにその社会的経験が欠けていることが原因だというべきだろう。
「男にもケアへの参加を」と久しく言われてきた。そしてそれは「わが子が育つ過程を味わう貴重な機会を失わないため」とか「親の老いを経験することで自分自身の老いへの想像力を持つため」と説明されてきた。わたし自身もそれと同じような発言をしてきた覚えがある。
だがもっと根源的にいえば、「圧倒的な権力関係の非対称のもとで、非暴力を学ぶため」と言いかえることはできないだろうか。もしそれが可能なら、セクシュアル・ハラスメントもドメスティック・バイオレンスも、そしていじめも虐待も、およそ自分の支配下にあっていかようにも翻弄することのできる相手を凌辱する誘惑から、彼らを守ることができるはずなのだ。
暴力も学習することができるなら、非暴力も学習することができる。女が女につくられるなら、男も男につくられる。女が「ケアする者」へとつくられるように、男は「ケアをネグレクトする(してよい)者」へとつくられてきた。公的暴力や私的暴力について語るとき、わたしたちは戦争やいじめはなくならない、という運命論にうちのめされそうになる。だが、ケアがわたしたちに希望を与えるのは、それが脱ジェンダー化されることを通じてなのだ。
それだけでなく、ケアが人間の生き死ににふかく関わる限り、生まれ落ちるときに「ケアされる者」でなかった者は誰ひとり(男も含めて)おらず、老いて死ぬときに「ケアされる者」の立場に立たない者も誰ひとりいないからだ。岡野がいうように、近代の自立した「主権的主体」とは、自分が「ケアされる者」であったこと、そして現在も将来もそうであることの「忘却の政治」によってのみ、成立しているのだから。
他者への依存なしに生きていけない「ケアされる者」は、弱者である。「ケアする者」は「ケアされる者」を抱えこむことで二次的に弱者になる。ケアの現場から立ち去ろうとしなかった者たちは、みずからも弱者になる道を選択してきた。男もケアを・・・という提言は、男にも強者になる道ではなく、弱者としての分かち合いを選択してほしいという呼びかけにほかならない。そして超高齢社会とは、誰にも依存せずに生きていけると思えた強者の時間は、人生のうちの一部分にすぎないことを、すべての人が思い知る社会なのだから。
そう思えば、旧版の「まえがき」に「挙げた手をおろす」というエッセイを置いた意味が、ひとめぐりして新たに自分にとって得心のいく選択だったとわかってくる。
暴力への反撃—「暴力の連鎖」とも呼ばれる—によっては何も生まれない。何より反撃する能力を欠いた者たちはどうすればよいのか?そのような弱者と呼ばれる者たちが、それでも「生き延びるための思想」こそが、求められているのである。
最後に、最終講義で語った「津波てんでんこ」についての後日譚をつけ加えておきたい。
ある雑誌に書いたエッセイの一部を引用しよう。
「津波の伝承(…を)土地のひとたちは「津波てんでんこ」と言い伝えてきた。一刻も早く逃げるが勝ちだから、他人のことなどかまっていられない、てんでんばらばらに逃げなさい、という意味だと知らされた。
だが、ある震災ボランティアが聞いた解釈はちがった。
「津波てんでんこ」は、不信のことばではなく、信頼のことばだ、という。津波の報を聞いて、子どもや親が心配で家に戻り、津波に呑まれたひとたちがたくさんいる。教師に従って死んだ生徒たちもいる。行政の指定した避難所に向かったばかりに、生きられなかった人たちもいる。「津波てんでんこ」とは、家族も友人も、それぞれがそれぞれの判断できっと生きのびてくれる、だからわたしも自分のことだけ考えて逃げ延びよう、きっときっと生きて再会できる…という相手に対する信頼と期待のことばだと。
戦災や天変地異を、命からがら逃げ延びてきた人たちの実感だろう。わたしはあの子をただ他人の助けを待つだけの、上からの指示に従うだけの人間には育てなかった、だからわたしは安心して逃げられる…それが「津波てんでんこ」だと聞いて、このことばの印象が一変した。」(「津波てんでんこ」『潮』2012年?月号)
ケアは相手に対する介入だけによって成り立っているのではない。ケアは相手の自発性や自律性への尊重と配慮によっても成り立っている。「心にかける」と同時に、手出しをしないで「見守る」、その両者の組み合わせからなっている。
その長くて忍耐強い過程を経て、わたしたちはひととなった。そして今度は子どもや老いた親をケアする立場に立っている。やがて不可避に「ケアされる者」となる。ひとはひとりで産まれ、ひとりで生き、ひとりで老いていくわけではない。そのことを忘れないでいよう。それこそがひととひとのあいだで「生き延びるための思想」なのだから。
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