上野研究室

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議会は「民意」がおきらい? ちづこのブログNo.34

2012.10.18 Thu

静岡県議会が浜岡原発さしとめをめぐる住民投票条例を全会一致で否決したことが話題になっています。これまでもさまざまな政治的争点を対象に、住民投票を直接請求した件で、議会がそれを認めた例はほとんどありません。
議会は直接民主主義がおきらい?
はい、そのとおりです。
間接民主主義こと代議制民主主義ばかりが民主主義ではありません。
政治学者の山崎望さんは、代議制民主主義について次のようなみごとな定義をしておられます。
代議制民主主義とは「投票によって意思決定権を代表に託すことで選良政治の一種であり、エリート政治であることで、背後には衆愚への警戒心があり、政治参加を4年に1回の投票に限定することで、市民の政治参加を抑制する意思決定のシステム」と。
そうだったのか、やっぱり。投票に行きなさいといくら言われてもキモチがもやもやしていたのは、あれが「政治参加」のしくみではなく、「政治参加を抑制するしくみ」だからだったのか、と目からウロコが落ちました。

以下、『信濃毎日新聞』に書いたコラムをご紹介。

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「民意を問う」?
68%、90%、47%、42%…原発割合を0%と回答したひとびとの割合だ。順に、政府主催の意見聴取会、パブリックコメント(意見公募)、討論型世論調査と国会議員(朝日新聞調査)。いずれの調査でもトップを占める。この中でどれがもっとも民意を反映していないかは、あきらかだろう。
意見聴取会は、2030年の電力供給に占める原発割合を、0%、15%(40年廃炉を前提)、20-25%(現状維持)と3択で示した。3択だからどの選択肢にも平等に3人ずつ発言者を、とわりふって大ひんしゅくを買った。意見分布が大幅に偏っているのに、同数では発言の代表性が疑われるからだ。しかも発言者のなかに電力会社の社員がいて、信頼性をそこなった。途中で路線転換をしたりして現場は迷走した。
討論型世論調査は、討論によって事前・事後の変化をみようという熟議型民主主義の新しい試みだった。こちらは討論前が41%、討論後が47%と0%支持者が増えた。冷静に熟議してもらえば、原発依存から脱することが容易でないことを市民に理解してもらえるだろうと考えた政府のもくろみがはずれた。パブリックコメントは圧倒的に0%支持となった。それで政府は「国民的議論に関する検証会合」なるものを組織して、わざわざ世論調査の専門家に結果を検討させた。
専門家からは、「国民の意見の縮図とはいえない」との意見が出た。そりゃそうだろう。世論とはそういうものだ。専門家が悪いんじゃない。専門家とは国民投票にだって警鐘を鳴らす慎重な人々だ。それがわかっていて「専門家」なる人々を動員したのだ。これまでパブリックコメントを要求しておいて、その結果に専門家による「検証」をした例はあるだろうか?討論型世論調査といい、専門家による検証と言い、意見を聞いてはみたものの、想定外の結果にうろたえた政府が、少しでも結果を過小評価しようと、あの手この手で鎮静にまわっていることがみてとれる。
だとしたら「民意を問う」というこうした公開の意見聴取の手続きそのものが、いったい何だったのか?と思えてくる。問われた民意が出した答の火消しに回るとしたら、「いったい、なんのために意見を聞かれたんだ?」と市民が思うのもむりはないだろう。聞いておいて、あてにならない、と専門家にコメントさせるためだったのか?世論調査やパブリックコメントが政策を変えたためしはめったにない。専門家による審議会なるものも、あらかじめ官僚がつくったシナリオに沿って答をだしているのだろうと不審に思う人は多い。つまりは、言いたいだけ言わせてあげるという「ガス抜き」の装置だったのか、と政治不信はいっそうつのるだろう。
その専門家たちですら、各種の調査結果を総合して「少なくとも過半の国民は原発に依存しない社会の実現を望んでいる」との結論をまとめた。
民意を問う、のは民主主義のきほんのき。その民意が国会に反映されないことが、あからさまにわかってしまったのが、今回の意見聴取の過程だった。
民主党政権にとっては思惑違いの逆効果だった。だがこういう政権の混乱が「見える化」していくことで政策決定過程が透明化していくとしたら、それをもって「効果」とすべきだろう。(「月曜評論」『信濃毎日』8月30日付け)

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タグ:脱原発 / 上野千鶴子