2012.10.27 Sat
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岩波現代文庫「上野千鶴子の仕事」シリーズに二冊の新刊が同時発売となりました。『生き延びるための思想』『ナショナリズムとジェンダー』、いずれも増補新版です。その「自著解題」にあたる「あとがき」をご紹介します。
前回『生きのびるための思想 新版』に引き続いて『ナショナリズムとジェンダー 新版』の「あとがき」を。帯には「慰安婦問題は終わらない」とあります。この問題、日本の保守勢力にとってはほんとに「アキレス腱」なんですね。
橋下が「慰安婦に強制はなかった」と「妄語」し、安倍が同じ「妄語」をくりかえす今日、この問題はくりかえし問われなければならないと感じます。
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『ナショナリズムとジェンダー 新版』「あとがき」(岩波現代文庫、2012年)
すべては90年代から始まった…今日のアジアをとりまく国内・国際政治の状況を見ていると、その感を深くする。進行するグローバリゼーションのなかで、いっそう激化するナショナリズムの抗争、右傾化し保守化する国内の論調、そのなかで掛け金となる「女性」の位置…2012年の今日、本書『ナショナリズムとジェンダー』を増補新版として世に送ることに意義があるとしたら、まだ過去になっていないどころか、現在進行中のできごとに、そしてそのねじれがなぜ解けないかの謎に、いくらかでも答えることができるからにほかならない。そしてそれは同時に、この10年から20年のあいだ、わたしたちが解くべき問いを解いてこなかったことのツケを支払うことでもあろう。
わたしの90年代はほぼ「慰安婦」問題で埋め尽くされた。
本書はその10年間の記録である。成果、と言ってよいかどうかは、後世の判定にゆだねるほかない。というのはこの問題は、いまだに解決を見ないまま、切れば血の出るような問題でありつづけているからである。そしてそれがなぜか、も本書から読者は感得されるだろう。
1991年12月6日、元「慰安婦」の生存者、金学順さんの日本政府提訴の報を、わたしは当時滞在していたドイツで聞いた。その時の衝撃は今でも思い出すことができる。日本の新聞の国際版に載った小さな記事だったが、わたしはボディブローをくらわされたような痛みを覚えた。それはわたしがドイツで1年間を過ごしていたことと無関係ではないだろう。同じ戦敗国でありながら、ドイツと日本の戦後処理のあまりの違いに、わたしはその理由を考え続けていたからだ。
帰国後にわたしは「慰安婦」問題をめぐる動きに巻きこまれていった。いや、自分からアタマをつっこんでいったというほうがよいかもしれない。その過程は、旧版「あとがき」に詳しく書かれている。
95年8月国連北京女性会議は、「慰安婦」問題をめぐる国際的な争点の場になるはずだった。いや、これも正確ではない。政府間会議が開かれる北京から何十キロも離れた郊外のリゾート地にNGOフォーラムの場所を移して隔離することで、NGOの動きを抑制しようとした主催者の意図にもかかわらず、その場を「慰安婦」問題をめぐる国際的な焦点にしようとたくらんだのは、日韓を含むアジアの多くの女性たちの仕掛けの結果だった。いくつもの会議、ワークショップ、デモ、署名活動が行われ、最終日には日本政府代表団の小和田和正国連大使をNGO会場へ招いて、抗議行動を行った。そのなかにわたし自身もいた。
96年には「新しい歴史教科書をつくる会」が発足。保守系論壇の発言者を糾合したこのフォーラムは、それ以降、右傾化とバックラッシュの拠点となった。文科省の検定を通過した彼らの「新しい歴史教科書」の採択をめぐって、今日に至るまで3年に一度の「教科書戦争」が続いていることは周知のとおりである。教育の場が戦場となり、学校行事での「君が代・日の丸」が争点となって、毎年のように教師たちが処分の犠牲になっていった。自殺した校長まで出したのだから、この戦争には「戦死者」がいたのである。
2002年9月17日、北朝鮮が拉致を認め公式に謝罪。国内では「北」をターゲットとする排外的な国民感情がいっきょに高まった。それ以降も、核実験施設やミサイル発射などで、北朝鮮は「ならずもの国家」として、東アジアの緊張を高めた。その包囲網だったはずの日本と韓国、中国とのあいだにも、竹島と尖閣列島をめぐるきしみが起きている。こんなちっぽけな島の帰属をめぐる領土問題がこれほどの熱い反応を引き起こすのは、韓国の「反日」、中国の「抗日」感情がねづよく底流にあるからである。それというのも、日本が侵略し、植民地化したアジアの諸国に対する戦後処理を誤ったからだ・・・ヨーロッパの中のドイツの位置を見ていると、そう思わないわけにいかない。
本書でも引用した駐日ドイツ大使だったフランク・エルベさんは言う、「和解とはもろいものです」…両方からさしのべた手でようやく支えているこわれものは、どちらかのバランスが崩れればあっけなく手からこぼれ落ちてしまう。それは両側から支えつづけるたゆまぬ意思のもとでなければ維持できないものなのに、反対に、それをこわすことはあまりに容易なのだ。
本書は、98年に青土社から刊行した『ナショナリズムとジェンダー』をあとがきまで含めて収録したものに加えて、それ以降、他の媒体に同じ主題をめぐって発表してきたいくつかの論文を収めた。もとはすべて「慰安婦」問題の衝撃から生まれたものである。91年に受けたボディブローに応えるための悪戦苦闘のなかから、本書は生まれた。III部に収録した論文は、もともと『生きのびるための思想』に収録したものだが、「慰安婦」問題に直接関連して書かれたために、この新版に収録することにした。『ナショナリズムとジェンダー』が引き起こした批判の応酬を含めて、「その後」の追跡が容易になると考えたからである。これまでいくつもの本を世に送ってきたが、旧版の『ナショナリズムとジェンダー』は、わたしがこれまでの書物のなかでもっとも熱をこめて書いた書物だった。
なぜ、なぜ、なぜ・・・と解くべき巨大な問いを前にして、わたしの問いは対象と方法の以下の2つの方向を同時に追求することになった。前者は国民国家と女性、後者は記憶をめぐる歴史の方法である。そしてそのいずれもが物議をかもした。
前者について得たのが「女性の国民化」という鍵概念である。「慰安婦」の被害者の女性たちから、日本国民は男女を問わず「加害者だ」と告発を受けることになった。国家の犯す戦争犯罪に対して女性はいかなる責任があるのか、そもそも国家に対して女はどのような位置にいるのか、女はそもそも国民なのか、国民になることを求めたのか、国民になったら何が起きるのか?それらの謎に答えようと思えば、国民国家とジェンダーとの関係について根源的な問いを立てるほかなく、その結果は、同じ問いを解こうとした戦前のフェミニスト思想家のあとをたどる旅となった。それは同時に、フェミニズムという思想が、国民化への誘惑にどうやって対抗することができるか、という問いへの答えともなった。そして過去のフェミニストの歴史的検証は、見通しの立たない現在において、未来へ向かってわたしたち自身がいかなる「選択」をするかという問いを迫るものでもあった。
I部第1章「国民国家とジェンダー」は、「女性の国民化」を鍵概念に、国民国家に対する女性の位置を歴史的に検証したものである。本書の再録にあたって、重要な概念の変更をおこなったことを追記しておきたい。旧版では、「女性の国民化」のふたつの下位類型を「参加型」と「分離型」と類型化した。が、本書ではそれを「統合型」と「分離型」に変更した。理由は以下のとおりである。
第1にもともとintegrarist/ separationistという英語圏における二分法は、「統合型」「分離型」と訳されるにふさわしいという訳語の選択がある。
第2にそれ以上に重要なのは、本稿を書いてのちに、「分離型」も「参加」の一形式であること、したがって「統合型」だけを「参加型」と呼ぶのは適切ではないとはっきり思うようになったことである。 統合型も分離型も、女性の国民化こと国民国家への参加の下位類型である。統合型は「男なみ」の参加、分離型は「女らしい」参加。いいかえれば、統合型は「男女共学型」、分離型は「男女別学型」と言ってよい。もしそうなら、日本では総動員体制のもとでも「統合型」の参加がおこなわれたことはないと言ってよいし、また第二次世界大戦中のアメリカのWAC(Women Army Corp)やソ連の赤軍女性兵士も、「女だけの軍隊」を組んでいた点で、完全な「統合型」とはいえない「男女別学」軍隊であった。「統合型」は、同じ小隊に男女兵士が同僚として肩を並べて戦闘参加するようになるまでは達成されたとはいえない。そして今日、それは現実化しつつある。もとより統合型も分離型も理念型であるから、この両極のあいだのいずれかに、現実は位置しているというべきだろう。
「慰安婦」問題のもうひとつの衝撃は、歴史とは何か?いかに語られるか?についての根源的な疑問をもたらしたことである。わたしが「慰安婦」問題にのめりこんだもうひとつの理由は、「証言」の価値をめぐる論争が、70年代から蓄積されてきた女性史の成果、聞き書きや口承の歴史に対する深刻な挑戦だと感じられたからである。歴史学のなかでも「記憶」と「語り」に関する関心は高まっていた。歴史とは集合的記憶の別名であり、記憶は選択的記憶と選択的忘却の集合であり、したがって語り手によって異なるバージョンがあり、語り直しもあるという考え方は、ようやく共有されてきているが、その背後にあるポスト構造主義の物語論や、ジェンダー研究のなかのエイジェンシー理論の貢献は大きい。そのことは「唯一の史実」にもとづく正統化された歴史の語り手としての歴史家の特権性を剥奪する結果になり、歴史家からの激しい反撃にさらされることになった。それも当然だろう、女性史の実践とは歴史の複線化、歴史学の民主化の実践だったのだから。
だが、問いはそれだけでは終わらなかった。現在進行形の「政治」のなかにわたし自身もまたまきこまれたからである。日本政府は「慰安婦」問題をめぐって、戦後何度目かの戦後処理のミスハンドルを冒した。それが95年の「国民基金」こと「女性のためのアジア平和基金」の設立である。発表された直後から多くの支援者から批判を浴びたこの「国民基金」は、運動体に「踏み絵」を持ちこんだ。それも一切のグレーゾーンを許さない、白か黒かの判定を強いた。
ひるがえってその「踏み絵」効果は、運動体自身の「正義」への批判を許さないものとなった。「『民族』か『ジェンダー』か?」は、苦渋に満ちた文章で書かれているが、この問題の錯綜とふくざつさとがそこから理解してもらえるだろうか。
III部に収録した「アジア女性基金の歴史的総括のために」もそのひとつである。95年に発足した「国民基金」は、2007年にその12年にわたる歴史を閉じた。現在はウェブ上に「資料館」が開設されている。そのなかに、基金関係者の痛切な証言が残されている。あたう限りの良心と善意から生まれた失敗、政治的な限界の苦い認識、それでもなお非力を尽くした自恃とこのような終末を迎えることの無念…が記されている。「国民基金」の解散は、折しも日本でもっとも保守的な政治家、安部晋三政権のもとであった。憲法改正を可能にし、教育基本法を「改悪」し、「ジェンダーフリー」バッシングの先頭に立ち、そして2000年の女性国際戦犯法廷のNHK放映に介入した当の政治家が、政権のトップに就いたときである。
安倍は内閣首班のときに、「慰安婦」に強制力はなかったと、アメリカの新聞に広告を出してアジア系アメリカ人の憤激を買い、米議会下院の日本非難決議を引き出す結果になった。安倍を「尊敬する」若手の政治家、橋下徹もまた「慰安婦」に強制力はなかった、とくりかえす。「慰安婦」をめぐる言説は、それ自体、政治家の立場を判定するリトマス試験紙の役割を今日に至るまで果たしている。「慰安婦」問題がナショナリストの「掛け金」になったのは、それが男仕立てのナショナリズムの「アキレス腱」だからであろう。日本が侵略戦争のさなかに占領地や植民地で冒したさまざまな「罪」のなかでも、捕虜の虐待や人体実験、生物化学兵器の使用などに比べて、「慰安婦」問題がとりわけ男たちの感情的な反発を招くには訳がある。性的凌辱は、たとえそれがいかに「本能」や「自然」の言語で擁護されていようとも、家父長制にとっては「不面目」な、隠しておきたい汚点であるだけではない。「女性の服従」によって成り立つ家父長制が、女をコントロールできないことの何よりの証になるからだ。
「国民基金」関係者が政治リアリズムから予見したとおり、その後の日本の政治環境は右傾化の一途をたどり、「あのとき」を除けば、「国民基金」が成立するチャンスは二度とふたたび訪れなかった…のは、今となっては誰しも認めないわけにはいかない「事実」だろう。そしてこのようなささやかな「評価」ですら、「国民基金」側に立つ者として裁断されるような原理主義が、運動体の側にあることは事実なのだ。
だとすればなぜ「国民基金」が「失敗」したのか、「失敗」には誰に責任があるのか、「失敗」しないためにはどうすればよかったのか、を問う必要があろう。
批判者たちもまた、他にいかなる代替選択肢があったのか、それが実現できなかったのはなぜか、を自分たち自身の限界を踏まえて検証すべきなのだ。
「慰安婦」問題は終わっていない。「生きているあいだに正義の実現を見たい」とのぞんでいた被害者の女性たちは、高齢からひとり、またひとりと亡くなりつづけている。生存者の最後のひとりが亡くなったとき…問題は終わるのではなく、ここは李明博大統領のいうとおり、「日本は謝罪の機会を永久に失うだろう」。
本書を読んでいるのが(日本国籍を持つ)若い世代の読者なら…この問題は現在進行形であり、その解決に(解決がむずかしいことに)、あなた自身にも責任の一端があるのだということを自覚してほしいと思う。
「慰安婦」問題はくりかえし、記憶されなければならない。なぜならそれは過去になっていないからだ。本書の再刊がそのための一助となることをねがっている。
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