アートの窓

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『トップガールズ』にみえた“女女格差” 杵渕里果

2011.05.29 Sun

『トップガールズ』:初演一九八二年。サッチャー政権の誕生を期に執筆された、英国の劇作家キャリル・チャーチルによるフェミニズムの演劇。
三十代独身のマリーン(寺島しのぶ)の昇進祝いのパーティーが第一幕。レストランに、中世から近代まで歴史的な女性五人が時空を超えて駆け付ける。甲冑姿の女傑フリート(渡辺えり)、女性探検家イザベラ・バード(麻実れい)、日本から『とはずがたり』の日記を書いた後深草院二条(小泉今日子)等々。
昇進、といっても、「一国の首相」ではなく「派遣会社の部長」なので、この顔ぶれで祝うのは大げさな気がする。なので、「有能なキャリアウーマン、趣味は降霊術」の感じもしなくない。マリーンをサッチャー首相に置換して観たり、「いや、いまだから奇矯にみえても八十年代にはこの設定が共感を呼んだ。そこに女性の社会的地位が…」と眉根をよせて観て間をもたせる。
でもけっきょく、小泉今日子の十二単姿に拍手し、麻美れい、鈴木杏のロングドレス姿をオペラグラスで確認し、渡辺えりが甲冑姿で大皿をがっつけば大笑いしと、要は歴史的な著名人をコスプレする著名な女優をナマで見ることが第一幕のホンネの楽しみどころだろう。
第二幕は、マリーンの勤める人材派遣会社のオフィス。求職相談にくる様々な女性に秘書業務や事務仕事を斡旋していくが、転職市場が豊かなようで羨ましい。景気がいいからか、社会の仕組みが違うからか、しらないが、それにしても企業名「トップガールズ」は嫌味。「○○スタッフ」でよさそう。ま、そこが英国流のユーモアで…と考える暇もなく、オフィスに突然、マリーンの姪(渡辺えり)が訪ねてくる。
喜劇的に、いかにも駄々っ子らしくドタドタ走り回る女児が登場。小学生が訪問して仕事場に通すものだろかと驚くが、どうも台詞をきくと姪っ子は十六歳。進路に悩むティーンエイジャーが、切実な思いで都会で成功した叔母を田舎から訪ねてきた様子。渡辺えりの演技は幼児性を強調しすぎている。
三幕以降は、この姪娘の住む寒村の家族、つまりマリーンの実家が描かれ、この境遇を脱したマリーンの努力が暗示される。
つまりこの戯曲は、マリーンのように「能力」で階級移動を達成した女性、またマリーンに賃仕事を斡旋される「能力」の劣る求職女性、さらに、田舎から都会にでるのも難しい姪っ子のような女性を重層的に対比させることで、サッチャー政権以降の新自由主義がつくり出す経済的な「女女格差」を浮き彫りにする。・・・はずなのだが、何にせよ渡辺えりがオモシロすぎる。
マリーンのプレゼントのワンピースを着てでてこれば、ちんちくりんさに観客が爆笑。天童よしみのキーホルダーのような円満このうえないビジュアルは、深刻な内容を深刻に見せない効果満点。それが演出家鈴木裕美の狙なら憎いでばえである。
ラストシーンでは、夜に目が覚めた姪娘がマリーンの手を握って「コワイよ~」と、夜闇を、ひいては女性の未来を不安がるのだが、正直、寺島しのぶのヨコ三倍あるコドモの方が“コワイ”。…いや、そこにこそ、マリーンの世代に比べ、若い世代の女性は“たくましくなった”というポジティブなメッセージを感じとるべきか。
とまれ、渡辺えりは痩身美形の女優に囲まれて、別の意味での「女女格差」を際立たせた。硬直した美醜の基準をこそ憂うべきだろう。
杵渕里果(きねふち・りか 演劇ライター)

カテゴリー:アートトピックス