2013.06.25 Tue
上野千鶴子『<おんな>の思想 私たちはあなたを忘れない』
集英社インターナショナル、2013年6月26日刊
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新刊が出ました。ひさびさにフェミニズムの直球本です。
第1部「<おんなの本>を読みなおす」、第2部「ジェンダーで世界を読み換える」。扱ったのは、第1部に5人の日本女性の書いた本(森崎和江、石牟礼道子、田中美津、富岡多惠子、水田宗子)、第2部に6人の外国人の著書(フーコー、サイード、セジウィック、スコット、スピヴァク、バトラー)。
どんな本かは、以下に第1部と第2部の扉をそれぞれご紹介します。自分でいうのもなんですが、力の入った本になりました。
1部 <おんなの本>を読みなおす
扉
「わたしの血となり肉となったことばたち」—そう呼びたい。本を読むとは他者の経験を追体験することだ。若い頃から、こんな本を読んできた。若かったから、未熟だったから、自分を表すことばが見つからなかった。そしてありあわせのことばは、どれも身にしっくり来なかった。そこに差し出されたのが、このなかにある「おんなのことば」たちだった。彼女たちもまた、わたしと同じような苦しみのなかから、ことば生み出したことを知った。それが母語だっからこそ、ことばは肉体に食い込んだ。少し先を歩む者たちから、わたしがどんなに恩恵を受けたか。それをあなたにも伝えたい…そう思って本書を書いた。
1部には、日本の女性の書き手による著作を集めた。順番は刊行年順。こうやって見てみると、ここでとりあげた本の刊行が60年代から80年代に集中していることがわかる。それというのもこの時代がフェミニズムの黎明期であり、「<おんな>の思想」の形成期であったからだ。
そしてその時期とわたし自身の人格と思想の形成期が重なったことは僥倖というべきだろうか。
とりあげたのは森崎和江、石牟礼道子、田中美津、富岡多惠子、水田宗子の5人。わたしより少し年長の女性たちである。彼女たちのことばは肺腑に沁みた。そんな思いをおとこの書き手にはついに感じたことがない。わたしの魂をゆさぶることばをわたしに送ったのが、おんなの書き手ばかりであったのは、たんなる偶然だろうか。そしてそういう女性たちと同時代を生きて、彼女たちのことばをたしかに聴きとったことを、次の世代のおんなたちに伝えたい。
2部 ジェンダーで世界を読み換える
扉
ほんとうに深い影響を受けた著作は、論文の文献目録にはあらわれないものだ—ある時から、そう思うようになった。自分の理論や思想の骨格をかたちづくり、血肉の一部になってしまったものを、どうやって自分から分離してそれと示すことなどできようか。どこから、と指示することができないから、引用すらむずかしい。思想も理論もその多くは他人からの借りものだが、借りものであることを恥じるに及ばない。もんだいは誰から、いかに、借りるか、ということだ。そして借りたらそれをいかにわがものとするか、なのだ。
本書でとりあげた外国人の著作はわたしが深い影響を受けた書物である。これも刊行年の順に掲載した。「<おんな>の思想」と銘打ちながら、そのなかにふたりの男性思想家が含まれていることを奇異に感じる読者もいるかもしれない。 だが、「おんなの思想」とは「おんな/おとこ」をつくりだす思想のこと、と言いかえてもよい。いや、もっと正確にいえば、「おんな/おとこ」をつくりだすしかけを暴き出す思想、と。それならフーコーの貢献は忘れるわけにいかないし、ポストコロニアリズムにおけるサイードを無視することはできない。
そしてもちろんポスト構造主義から脱構築へと至るスコット、スピヴァク、セジウィック、バトラーという先鋭なジェンダー理論家たちからどれだけ学んだだろうか。輸入学問、と批判するひとたちには、スピヴァクの次のことばで答えたい。「ジェンダーは日本のおんなたちにとって外来語ではないのか?」という問いに介入して、スピヴァクはこう言ったのだ—「誰のつくったものであれ、使える道具はどんなものでも使えばよい」と。
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