アートの窓

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【レビュー】「不断に政治的であることを試みつづけるアート」(イトー・ターリ「ひとつの応答」を行為する)

2011.06.23 Thu

2011年4月28日 南風原文化センター(沖縄)にて 「ひとつの応答 ーペ・ポンギさんと数えきれない女たちー」


イトー・ターリ
パフォーマンス・アート アクション 「ひとつの応答」を行為するin 沖縄・東京 − ペ・ポンギさんと数えきれない女たち
2011年6月18日(土)3331 Arts Chiyodaコミュニティスペース >>>

沖縄に日本軍「慰安婦」にされた朝鮮人女性がいたこと、
彼女の苦難の旅は、8月15日の「解放」以降も、さらに過酷なかたちでつづけられたこと、
それは彼女の心と体にぬぐいされないほどの強く執拗な痛みとして刻まれたこと
——に気づいたとき、
それが戦後の、
おなじく軍の存在と結びついた
沖縄の多くの女性の消えることない痛みとともに、
ターリさんの体の底にねむる痛みにふれ、共振を起こした。
その痛みの共振を、どのように、いま、ある特定の場で、表現できるのか。

それは、同じくターリさんの体の底にねむるさまざまなアートの記憶を
いったん否定し、忘れ去ることによって、
体の古層のようなものを露出させる作業を通して出来上がった身体、
世間のたれながす「美」との野合を徹底的に拒否する古くて新しい身体、
あえて貧しさのなかへと彫琢された身体に、
水と、ゴムと、粘り気によって、
鈍く、執拗に持続する痛みとして、
視覚的・聴覚的に表現される。

そしてその「ひとつの応答」は、
さまざまな国や場所で、さまざまな(時に重複する)人びとの前で反復される。
それはパフォーマンスの定義上当然のことながら、
そのつど一回性のものとして、
始まりはともかく、どれだけ続き、いつ終わるかは、
アーティスト自身にもその場でしかわからないかたちで生起する。

そうしたターリ・パフォーマンスに、
今回は言葉のレベルで「主体の転倒」というねじれが加えられ、
みずからがいつでも加害者になってしまう危険へと身をさらす試みが始まった。
さらにこの東京公演の直前の沖縄で、
どうやらなにか決定的な出会いを果たしたらしく、
その反復は、おそらく何か別のものへとつながる予感を帯び始めているようです。

性的マイノリティの人々と出会い、
従軍「慰安婦」の女性たちと出会い、
沖縄と出会い、
そして今回の「被災者」たちと出会う。
「出会うたびに前のことを忘れて新しい対象に移るなんてできない」
とターリさんはおっしゃいます。
その旅はいくつも重なりながらずっと続いていく、
その確信のようなものに、沖縄で出会われたのでしょうか。

アートとは本来的には「政治」ではないでしょうか。
「美」とは何かを問いかけ、
現在流通している「美」に闘いを仕掛けないものは、
アートの名に値しないのですから。

現在受け入れられている状況に疑問を投げかけ、
その状況によって苦しんでいる人やモノのために
不可能と思われていることを不可能と思い込むのでなく、
現在の状況を少しでも動かそうとすること、
自分ひとりの力を過信することなく他者とともにそれをなそうとすること、
が「政治」だとしたら、
真に政治的なのは、政治家ではなく、アーティストだと思います。

また、政治を題材にすれば政治的アートになるわけでもない。
あえて政治を扱わない、という意味で政治的なアートも存在するでしょう。
その意味で、
ターリさんのパフォーマンスは、不断に政治的であることを試みつづけるアート
と呼べると思います。

宮田仁(みやた・まさし、単行本編集者。以文社勤務)

カテゴリー:アートトピックス

タグ:慰安婦 / アート / アクティビズム / パフォーマンス / フェミニズム / ジェンダー / ひとつの応答 / イトー・ターリ / 性的マイノリティ

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