上野研究室

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闘争と挑戦の福祉社会学 ちづこのブログ No.58

2013.11.30 Sat

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東大出版会の『シリーズ福祉社会学』全4巻が完結しました。
以下のような構成になっています。
1巻 武川正吾編『公共性の福祉社会学』
2巻 副田義也編『闘争性の福祉社会学』
3巻 藤村正之編『協働性の福祉社会学』
4巻 庄司洋子編『親密性の福祉社会学』

それに対する書評を上野が書きましたので、版元の許可を得て、以下にご紹介します。

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[『シリーズ福祉社会学』刊行に寄せて]4 闘争と挑戦の福祉社会学
(『UP』493、2013年11月、東京大学出版会、1-6頁)

闘争と挑戦の福祉社会学
上野千鶴子(社会学)

社会福祉学か福祉社会学か?
わたしはいわゆる福祉業界へ、遅れて参入した新参者である。キャリアはほぼ13年、介護保険の歴史と重なる。もっとはっきりいうと、介護保険施行前夜に、高齢者福祉と呼ばれる分野に足を踏み入れたのである。それまで福祉学という分野があることは知っていたがそれが何かはまったく知らず、社会福祉学と福祉社会学の違いもいまだによくわからないままだ。そこにシリーズ『福祉社会学』全4巻が登場した。これから勉強させていただこうと思う。
福祉業界に足を踏み入れてみて、仰天することが多かった。日本には福祉系の有名な大学がいくつかあり、その歴史は古く、学閥があることも知った。何より行政と密着しており、事業の許認可権や助成金等の利権の構造にがっちり組みこまれていることもわかった。社会福祉学のビギナーとして入門書をひもといてみたら、措置時代のパターナリズムにまみれていて、呆然とすることもしばしばだった。
他方、福祉社会学の歴史は新しい。福祉社会学会が誕生したのはようやく2003年のことにすぎない。名称からして、社会学の下位分野のひとつであることはわかるが、現在までに国立大学の社会学系の学部学科で、福祉社会学専攻が可能な制度的な布置を有するところはない。旧帝大系の国立大学には、社会福祉学専攻の学部学科も存在しない。それというのも、「社会福祉学」が、専門職養成のための技法の集合と見なされて、学問とは考えられてこなかったからであろう。
本シリーズの編者のひとりであり、また福祉社会学会の初代会長である副田義也さんには、『福祉社会学宣言』[2008]という鮮烈な著書がある。刊行年に見るように、福祉社会学の成立は遅い。この本には会長就任講演(「福祉社会学の課題と方法」)が収録されている。すぐれた研究者がいたにもかかわらず福祉社会学のジャンルとしての成立がこれほど遅れた理由を説明し、社会福祉学分野で「現在活躍中の先輩・同僚の研究者たちのお名前を挙げて率直に批判的見解を申し述べる」とあるように、福祉社会学と社会福祉学のあいだには、潜在的な対立があることをもうかがわせる。副田さんご自身は、長年にわたってご自身が手がけてこられた研究を、事後的に「福祉社会学」と呼ぶことを承認し、その担い手としてのアイデンティティをお持ちのようである。その趣旨からいえば、わたし自身には福祉社会学者としてのアイデンティティはない。
副田さんの定義によれば、「福祉社会学」とは「社会福祉を対象とし、社会学の方法を使っておこなわれる研究である」[副田2008:209]。だから、福祉社会学者は第一義的に社会学者なのである。
ちなみにわたしは従来の連辞符社会学の分類にしたがって、勤務先の大学等で家族社会学を講じてきたこともあるが、家族社会学者というアイデンティティもない。わたしは社会学者を名のることにためらいを持たないが、専門をいうなら「ジェンダーの社会学」というべきだろう。「福祉」社会学や「家族」社会学が対象の領域指定からくる名称であるとすれば、「ジェンダー」は方法であり、分析カテゴリーである。家族領域にとどまらないし、福祉領域に閉じこめられることもない。なぜなら、公的領域、私的領域を問わず、ジェンダーが関与しない社会的領域は、ほとんど考えることができないからである。
福祉社会学のもうひとつの源流に社会政策学や公共政策論がある。経済学者や政治学者がこれまでこの分野を扱ってきた。エスピン=アンデルセンの「比較福祉レジーム」論が登場して以来、この分野はにわかに活気づき、多くの研究者が参入したが、ジェンダー研究者としてのわたしは、この分野にもあまり関心を持てない。それというのも、制度や政策で介入するには日常のジェンダー実践はあまりにふくざつで根の深いものであり、法や政策の効果に楽観的になれないためである。それだけでなく、比較福祉レジーム論に関わる若手の研究者が、あたかも政策立案者や制度設計者のごとく、統治者の目の高さから議論をする傾向があることが気になる。福祉社会学には、田淵六郎さん[2013]が指摘するように、マクロ、メソ、ミクロのすべての水準へのアプローチが必要であろう。

可視化された「ケア」
そのジェンダー研究者がなぜ福祉業界に接近したかといえば、ほかでもない、「ケアの社会化」こと2000年の介護保険法施行がきっかけだった。ジェンダー研究は性別非対称性の謎を解くべく、公的領域から隠された私的領域における女性の不払い労働に注目してきた。それはかつては「労働」とすら見なされなかったものだが、やがて「家事労働」と呼ばれ、「再生産労働」とも呼ばれるようになった[上野1990]。その内実が育児・看護・介助・介護にわたる「ケア」と総称されるようになり、女性が「ケア(世話)する性」であることが、ジェンダー問題のすべてとは言わないまでも、その核心を占めることが指摘されるようになった。だからこそ、わたしは10年間の研究の成果をまとめて『ケアの社会学』[上野2011]を著すに至ったのだが、それは「ジェンダーの社会学」の自然な延長上にあった。一部の読者は、わたしがジェンダー研究を離れてケアの研究にシフトしたと見なしているようだが、それはまったくの誤解である。わたしの研究を取りまく社会的文脈が、たまたま「福祉」と呼ばれる分野と接近したにすぎない。
ケアの社会化 によって初めて、「社会化されないケア」「私的領域におけるインフォーマルケア」が、自明でも不可視でもなくなり、「見える労働」になった事情を、第4巻『親密性の福祉社会学』の編者、庄司洋子さんはこう書いている。
「大変な時間と労力を必要とするさまざまなケアを家族内に閉じこめて、そこに内在する問題を改めて問わずにすんでいる限りでは、それらをひとくくりにするケアという概念などたぶん誰も必要としなかったのである。」[庄司2013:4]
「社会化されたケア」が登場してはじめて、「家族ケア」が可視化され、「家族化」「脱家族化」「再家族化」(エスピン=アンデルセン)のような概念も用いられるようになった。
こういう眼で社会福祉学を見ると、驚くことが多い。「社会福祉」はしばしば「市場の失敗」を補完する公共的な制度や政策だとみなされている(補完主義)。市場という自動調節機構を通じて、資源の適正配分が行われることが想定されているのに、さまざまな事情から稼得能力を失ってその自動調節機構からドロップアウトした人々(高齢者、障害者、病人等)が、限定的に福祉の対象となる。その「市場の失敗」以前には、「家族福祉」が機能していることが前提されていて、「家族の失敗」は想定されてさえいないのだ。さらに福祉社会学の知見では、公共的な福祉の供給者である「福祉国家」ですら限界につきあたっており、「国家の失敗」をも想定しなければならなくなっている。すなわち今日の福祉社会論者は、「家族の失敗」「市場の失敗」「国家の失敗」(もしくはそれぞれの限界)を前提として議論を組み立てなければならなくなっているのである。

規範科学か経験科学か?
福祉分野に参入して出遭ったもうひとつの驚きは、社会福祉学では、福祉が「よきもの」と規範化されていることであった。もとより福祉の語源であるwelfareやwell-beingという概念そのものが、「よきもの」という価値判断を含んでいる。
だが、同じ現象に「ケア」という概念からアプローチしてみると、異なる相貌が見えてくる。「ケア」は、受ける側にとっても与える側にとっても、よきものでも悪しきものでもありうる。「ケアする性」としての女性のケア労働研究は、もともと家事労働論—愛の行為か、不当に支払われない労働か?—から始まった。倫理学者や哲学者のケア論に抱く違和感は、ケアもまた、無条件に「よきもの」と前提しているところにあった。 実際にはケアは、与える側にとっては「できれば避けたい重荷」、受ける側にとっても「受けずにすむなら避けたい依存」でありうる。しかも過剰なケアも過少なケアも、 どちらも受ける側にとっても与える側にとっても、加害-被害関係をもたらす困ったものなのだ。
第4巻執筆者のひとり、稲葉昭英さんは、ケアに伴う暴力を指摘する。暴力はたまたまケアに随伴するわけではない。ケアという絶対的に非対称な権力関係は、暴力が発生する装置とさえ、言ってよいくらいだ。『フェミニズムの政治学』[岡野2012]の著者、岡野八代さんは、「自律的な主権主体」からなる公共空間の「神話」が、「ケアの忘却」から成り立っているとするどく批判する。その「ケア」関係のなかで、女性が生殺与奪の権を握った絶対的な弱者である幼児や高齢者を、何世代にもわたって、殺さずかつ遺棄もせずに世話してきたことを、サラ・ルディックの論を紹介して「非暴力を学ぶ実践」と呼ぶ。稲葉さんは「なぜケアは女性によって担われるか」という問いを立てたうえで、「他者への配慮や気遣い」(これを彼は「弱いケア」と呼ぶ)を「男性が行うには何が必要か、という議論が重要な意味をもつことになるだろう」と指摘する。因果関係を逆転すれば、「(配慮や気遣いのある)女性だからケアを行う」のではなく、「ケアを行うことによってひとは女性(=配慮や気遣いをする者)になる」というべきだろう。それなら「男性に何が必要か?」はすでに明らかだ。彼らもまたケアという実践(育児、介護)から排除されてはならない。

闘争と挑戦
社会学は経験科学でも規範科学でもある。その意味で、副田さんが編集した第2巻『闘争性の福祉社会学』の冒頭、パーソンズに対して、すっかり忘れられていると思われたダーレンドルフが登場したのは目が覚めるような衝撃だった。思えば社会学はシステム理論を採用して以来、均衡モデルにとらわれてはこなかったか?わたしはシステム理論を「調和モデル」、ダーレンドルフの闘争理論を「葛藤モデル」と呼んできたが、現実の社会は、システム論者が期待するようには閉鎖系としては成り立っていない。つねに文脈が変化し、環境との境界が不断に変更されるような開放系としての社会は、葛藤や矛盾、対立や破綻をかかえたままでも存続しつづける。現に存在するシステムは均衡しているはずだ、とする「調和モデル」を採用する根拠はない。それは立証も反証も不可能な公準命題にすぎないからだ。その変化の動因のひとつが「闘争」であるとする副田説は、まったく正しい。そして闘争とは、現状に対する異議を表明する「クレイム申し立て活動」によって始まる、すぐれて規範的な行為にほかならない。
編者の副田さんは、温情や庇護、善意やパターナリズムの支配する福祉の領域に「闘争」という概念を持ちこみ、しかもその巻の執筆者のひとりにわたしを起用してくださった。2巻に寄稿したわたしの「『当事者』研究から『当事者研究』へ」[上野2013]は、まさにその「クレイム申し立て者」としての当事者の権利付与entitlementを論じたものである。
4人の編者はこのシリーズを歴史的な「事件」と宣言する。第1に「現代日本の社会学にとって事件」である。第2に「現代日本の福祉研究にとっても事件」である、と。編者みずから「学史に残る仕事」とたからかに宣言し、自負するだけあって、本書は挑戦に満ちている。多くの読者に読まれることを期待したい。

参考文献
藤村正之編2013『シリーズ福祉社会学3 協働性の福祉社会学』東京大学出版会
稲葉昭英2013「インフォーマルなケアの構造」[庄司編2013]
岡野八代2012『フェミニズムの政治学』みすず書房
庄司洋子編2013『シリーズ福祉社会学4 親密性の福祉社会学』東京大学出版会
副田義也2008『福祉社会学宣言』岩波書店
副田義也編2013『シリーズ福祉社会学2 闘争性の福祉社会学』東京大学出版会
田淵六郎2013「『シリーズ福祉社会学』刊行によせて3 『福祉社会学』は何を問うのか」『UP』2013年10月号、東京大学出版会
武川正吾編2013『シリーズ福祉社会学1 公共性の福祉社会学』東京大学出版会
上野千鶴子1990『家父長制と資本制』岩波書店
上野千鶴子2011『ケアの社会学』太田出版
上野千鶴子2013「『当事者』研究から『当事者研究』へ」[副田編2013]

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