発達障害かも知れない子どもと育つということ。33

 私が小学校の頃は、もちろんいろいろな子がいたし、その中には当然今でいう「発達障害」の子どももいたと思う。しかし、その数はそんなに多かったかなぁという風にも思う。今から思えば、明らかにLDの子どももいて、「左利きだから、そういう鏡文字を書いてしまうんだ」と先生に激しく矯正されていて気の毒だった。今であったら、もう少し叱咤激励以外の対応をとって貰ったであろうにと思われる。

 発達障害、というカテゴリーが認知されるようになってから、ちょっと逸脱すると、「あの子は発達障害なんじゃないか」という眼差しを向けられるようになってきている。本来だったら、「個性」といわれたものが、「障害」と呼ばれるようになって、よくなった面もあれば(例えば個別に対応してもらえるようになって、不要な叱咤激励がなくなったとか)、悪い面もあるだろう(例えば、ちょっとした行動を「障害」故の行動であるという風に解釈され、逸脱を許されなくなるとか、逆に放置されてしまうとか)。

 親の態度もいろいろである。夫がかなり激しいアスペルガーであったため、私は最初から子どもの発達に関してはセンシティヴだった。そういう私に対して、「気にしすぎ」という声は多々あった。娘を含む女子生徒にちょっかいを掛けてくる男の子のお母さんは「うちの子は悪くない」と相当の自信をもっていて(ひょっとしたら内心はわからないけれど、自分の子どもを棚に上げてかなりのことをいわれたので、あまり優しい気持ちになれない)、ときどき「おおらかだったら悩まないで済むのかも。羨ましい」と思ってしまう。障害であろうとなかろうと、子どもの「不適応」に関して。見ていると「男の子だもの、それくらいは普通よ」という風に、解釈されているようにも思う。

 子どものことで悩んでいるお母さんと話していても、やっぱり悩みのツボは違うのだなぁと思う。ときどき「うちの子は『そういうの』ではないんだけど」というお母さんもいて、「そういうの、って何だろう」と思う。発達障害のカテゴリーに入れられるのだったら、まだ「出来ない子」というカテゴリーのほうが好ましいと思っているのだなぁと思うのだけど、「そういうの」に入るかもしれない子どもに対してはちょっと失礼なんじゃないか、と思ったりする。ありていにいえば、傷つくのだが。

 今の学校制度に対しても、最高だとはとても思えないのだが、かといって「全て日本の学校制度が悪い」と思えるほどには、自分の子どもに自信はない。等身大の子どもの姿を見つけて受け入れるって、本当に大変なことだと、いつも思う。努力して入るのだけれど、なかなかできない。

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